古都ヤロスラブリ

モスクワ北東近郊には、「黄金の環」と呼ばれる一群の古都があるが、その中でも、首都から282キロのボルガ川沿いに位置するヤロスラブリは、ロシア美術の宝庫として傑出した存在だ。旧市街はユネスコの世界遺産に登録されている。

ウィリアム・ブラムフィールド撮影

古都と近代的都市の顔

ボルガ川クルーズでも人気のこの都市には、毎年何千人もの観光客が訪れる。その大多数は、17世紀の壮大な文化遺産群に足を運ぶが、遺産の代表格は、中央広場に位置する預言者イリヤ聖堂(1647~50)だ。壮麗な内部装飾で名高い。

ヤロスラブリは、スーズダリのような、中世~近世の過去がそのまま保存されたタイムカプセルとは違って、近代的都市としての顔ももっており、石油化学産業を中心とする大規模な工業がある。2010年には、日本のコマツの新工場も建設され、既に稼動を開始している。

それと同時に、この都市は、ロシアの古都の伝統的美しさを最もよく残しており、しかもその美は、抜群のロケーションでさらに際立つことになる。並木道が続く高台からは大河ボルガが一望でき、雄大さと優美さにため息が出る。

都市の起こり

交通、通商の要衝として発展

ヤロスラブリは、11世紀初頭にヤロスラフ賢公によって築かれ、13世紀には既に、石造の聖堂が複数できていた。当時のロシアの建造物はほとんど木造だったのでめずらしい。しかし、ウラジーミルとは異なり、最初期の石造建築は一切残っていない。1238年に、ロシア中央部を制覇中のモンゴル人によって略奪、破壊されたためだ。  

ヤロスラブリは、その立地条件の良さから、ボルガ川流域における商業の中心地として機能してきた。とくに16世紀後半になると、イワン4世(雷帝)は、白海に注ぐ北ドビナ川の河口に港(アルハンゲリスク市)を開き、白海経由で、モスクワ→ヤロスラブリ→ヨーロッパのルートで交易できるようになった。

もっとも、1605年のツァーリ、ボリス・ゴドゥノフの死をきっかけに始まった空位時期に、ヤロスラブリの商業は下降線をたどっていった。「動乱時代」として知られるこの時期、ロシアはポーランド・リトアニア共和国に占領され、政治と社会は混乱を極め、国土の多くは略奪された。しかし、やがて民衆がポーランド軍に抗して立ち上がり、1612年、ヤロスラブリは、民衆部隊の結集地としての役割を果たすことになった。

 同市の商人たちがこの軍事活動に積極的に協力したことから、ロマノフ朝最初のツァーリであるミハイル・フョードロヴィチ(1596~1645)は、これらの商人に交易上の特権を与えた。

壮麗な建築群とフレスコ画

聖堂の数でヤロスラブリに太刀打ちできたのはモスクワだけである。聖堂は、富裕な商人、市の各地区や業者組合などが資金を出し合って建造した。17世紀を通じて、44の石造聖堂がヤロスラブリの35の教区で建立された。

最も有名なのは預言者イリヤ聖堂(1647~50)だ。建立資金を寄進したスクリピン兄弟は、シベリアの毛皮交易を通じてその財を築き上げた。壮大な聖堂の中央にそびえる建造物は、高い土台の上に建てられ、立ち入り禁止の中二階を支えている。5つの円塔がその頂点を飾り、隅には礼拝室が付属している。

1680年には、聖堂の内部は、コストロマ市の出身であるグーリー・ニキーチンとシーラ・サービンが率いるヤロスラブリの画家集団の手によるフレスコ画で覆われた。17世紀後半のロシア宗教美術に対する西欧の強い影響力が、画に示されている。

夏用と冬用の聖堂 

信仰と伝説

ヤロスラブリの教会建築を際立たせる特徴は、「夏用」の聖堂と「冬用」のそれとが一対になっていることだ。小型の方が冬用で、暖房が施されており、大型で威風堂々たる聖堂は、主に夏場の利用に限られる。その一例は、聖ニコライ・モークルイ聖堂(1665~72)で、鐘楼に加え、付属の冬用聖堂が含まれている。

この冬用聖堂は、イコン「チフビンの聖母」(1686)に捧げられている。このイコンのオリジナルは、福音記者ルカの手になるとの伝説がある。両方の聖堂は、1690年代に、正面に陶磁の装飾が施された。

聖ニコライ・モークルイ聖堂の「モークルイ」は、ロシア語で「濡れた」の意味。これは伝説に因んでいる。キエフに住む夫婦が、うっかり赤子を川に落としてしまった。嘆いた夫婦が聖ニコライに一心に祈ったところ、教会の聖人のイコンの前に、全身濡れた赤ん坊が元気で見つかったという。

近郊にも教会建築群

17世紀には、ヤロスラブリ郊外のいくつかの地域で、独自の聖堂群が建てられた。とくに目立つのが、トルチコボの前駆受洗イオアン(洗礼者聖ヨハネ)大聖堂(1671~87)だ。   

もう一つの主な教会建築群は、コロフニキ地区にある。この地名は、ロシア語で牛を意味するkorova(コローワ)に由来しており、放牧地として利用されていたのだが、地元住民は陶磁工芸や煉瓦づくりにも携わっていた。これが、上の2つの聖堂群の構造と装飾に決定的な役割を果たした。

コロフニキのメインとなる建造物は、商人のネジダノフ兄弟によって建てられた聖金口イオアン聖堂(1649年~54)だ。兄弟は、南回廊に埋葬されている。

ちなみに、金口イオアン(金口ヨハネス)は、4世紀から5世紀にかけて活躍したビザンティン(東ローマ帝国)の教父で、名説教で知られた。

これに次ぐのが、イコン「ウラジーミルの聖母」に捧げられた冬用聖堂(1669年)。とくにボルガ川から眺めると、メインの聖堂を見事に引き立てる。