「ロシアのロックを支えてきた四天王」。タス通信/ロシア通信撮影
私が学童の頃、世界にはハードロックの旗が翻っていた。けれども、ロシアのロックで聴いていたのはボリス・グレベンシチコフ率いる「アクアリウム」くらい。個人的な好みというわけではなく、選択の余地がないのも同然だった。公にはソ連にはセックスも麻薬もロックも存在していなかったのだから。
ソ連のポップスは、凍える恐竜のごとく陰気に歌い、マネキンのように身構えていた。官能的恋愛を仄めかす言葉も、暮らしに対する疑念も、無邪気な「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!」さえも、悉く「資本主義のウィルス」とみなされ、雑草のように社会から根こそぎにされていた。
闇市は進歩の原動力か
西側の流行音楽がソ連圏に入ってくるとしたら、それは公務で外国を訪れた役人がスーツケースに忍ばせてくるくらいのものだった。そうしたレコードは「尾行」されないように門外不出だった。
それで友人たちは、自分の 16 キログラムもあるテープレコーダーを引きずって町中をめぐり、525メートルもあるオープンリールテープにそれらの宝物をコピーしていたのだ。
最初のコピーはとくに貴重だった。ダビングのたびに次第に音質を落としながら、コピーは大衆に流布していった。サハリンに到達したときには、その音質は「ひどい」の一語。
しかし、「外国」への関心は消えず、音楽マニアは良い音楽に金を惜しまなかった。 80年代初めには、ピンク・フロイドのアルバム「狂気」の新品のレコードが、闇市で教員の月給の半分、処女コピーでもその4分の1はした。
ちょうどその頃、レコーディング・スタジオがロシア全国に雨後のタケノコのように続々と現れ始めた。それらは「ブルジョアの悪風の温床」とみなされて常にKGBにマークされ、儲けを山分けしないスタジオは「反ソ行為」の廉で閉鎖された。
80 年代のシニカルなロマンチストである私には、今もときどき、地下録音スタジオこそがソ連崩壊の口火を切ったように想われる。
525メートルもあるオープンリールテープに流行音楽のレコードをコピーしていた=ロシア通信撮影
ロックと崩壊の始まり
「ロックは死に体だが、僕らはまだ違う」と、レニングラード(現サンクトペテルブルク)でグレベンシチコフは、ロシアのロックの黎明期にあたる1983年に早くも歌っていた。
「若者の堕落の温床」が「文化的な北の都」に生まれたのは偶然ではない。この町に伝説のカフェ「サイゴン」がお目見えし、既存の体制に屈しようとしない路上ロックミュージシャンたちがそこに集まるようになった。決まって警察を苛立たせる彼らの歌は、テープに録音されて全国へ広まっていった。
「タイムマシーン」、「アクアリウム」、「キノー」、「DDT」は、ロシアのロックを支えてきた四天王だろう。どのグループも、自分のスタイルと思想を具えており、今も全国に大勢のファンがいる。
「アクアリウム」は結成 40 周年を迎えた。彼らは、依然としてロシアンフォーク様式のチベットのマントラやヘビーなファズ(音響機器)を交えて、屈託のないレゲエを聴衆に届けている。
けれども、一貫しているのは、次なる世代の精神の支えとなり得る新たな詩篇を生み出していることだ。
「アクアリウム」のディスコグラフィ:
http://www.k2.dion.ne.jp/~soyuz/cdi-akuvarium.htm
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