サンクトペテルブルグ市のクズネーチヌイ横町にあるドストエフスキー博物館=タス通信/ルスラン・シャムコフ撮影
フョードル・ドストエフスキーの名前は、常にサンクトペテルブルグと結びついている。ドストエフスキーの小説のなかで、ペテルブルグはその舞台となっているだけでなく、登場人物の一人ともいえる役割を担っている。文学研究者らは、ドストエフスキーが書いた作品のおよそ3分の2に、この街が描かれていることを確認している。ペテルブルグの地図に小説の主人公らの家を見つけることもでき、作家自身の生活と関わる場所も保存されている。今では多くの旅行会社が、ドストエフスキーをテーマにした様々なコースを旅行者に提供している。
「弊社の学芸員らは、ドストエフスキーのペテルブルグを知ってもらうため、コースを詳細に調べました。作家はこの街に28年住み、つぎつぎに住居を変え、20回引っ越しました。それでこれほどドストエフスキーにまつわる場所があるのです」と旅行会社「ミール」のワレーリー・フリードマン社長は言う。
ドストエフスキーのペテルブルグめぐりの散策は、作家が最後の長編小説『カラマーゾフ兄弟』を書いたクズネーチヌイ横町の住居(現・ドストエフスキー博物館)から始めるのがよいだろう。コースの中でもう一つ見落とせないのが、神秘的なミハイロフスキー城。これはドストエフスキーがモスクワからペテルブルグに移り住んだ際、1838年に入学した工兵学校があった建物だ。まず、このミハイロフスキー城自体が興味深い。陰謀家らの手が届かない安全な隠れ家を建てるべく、パーヴェル皇帝はこの城の建設を命じたのだが、運命は皮肉なもので、皇帝はまさにこの場所で暗殺されている。
工兵学校を終えたあと、ドストエフスキーはウラジーミル大通りと交差するグラフスキー横町の角に住み、ここで『貧しき人びと』が書き上げられ、一躍文壇に名を馳せることとなった。その後、ヴォズネセンスキー通りと交差するマーラヤ・マルスカヤ通りの角に引っ越し、『白夜』を執筆。ちょうどその当時、ドストエフスキーは革命家らと知り合い、秘密結社に加わった。1849年4月、結社のメンバーは密告により逮捕され、ペトロパヴロフスク要塞に拘禁される(いわゆる「ペトラシェフスキー事件」である)。ドストエフスキーも要塞に拘禁され、死刑判決を受けた。同じ年の12月22日、ドストエフスキーを含む21名の受刑者は、公開処刑が行われるセミョーノフスキー練兵場に連行された。
「旅行者たちにこの場所の話をするたびに背筋が寒くなります」と、「ミール」旅行社の学芸員エレーナ・ヤコフチェンコさんは言う。
「処刑台には3本の柱が立てられ、受刑者らは3人ずつ7回で処刑されるはずでした。ドストエフスキーはその2列目におり、運命の時を待ち受けていました。そのとき急使が現れて新判決を読み上げ、死刑判決が懲役4年に減刑されたのです」。
懲役のあと、ドストエフスキーはしばらくモスクワに住んだが、その後ペテルブルグに戻り、ストリャールヌイ横町に住居を定め、そこで最も有名な長編小説『罪と罰』を書き上げた。
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