ノー・ブレーキ!!!

店の前に並んでいるピストバイク =プローホル・コロソフ撮影

店の前に並んでいるピストバイク =プローホル・コロソフ撮影

ここ数年、世界中の大都市において、固定ギア付き自転車(トラックレーサー)、別名ピストバイクが若者の間で大人気の交通手段となっている。温暖な季節が短いモスクワも例外ではない。10月29日、「ピストバイク・モスクワ」というモスクワの愛好家グループが、今シーズンの幕を下ろした。

ピストバイクとは

 ピストバイクとは、トラックフレームまたはロードフレームを中心とした、可能な限り単純な構造としている自転車で、変速ギアのないものである。つまり、後輪のスプロケットがペダルと硬く直結しているため、自転車が動いている間はペダルの回転が止まることはなく、タイヤが惰性で動かないのである。ここから英語の「fixed gear(固定ギア)」の名が生まれ、口語で「fixie(フィクシー)」と呼ばれているのである。自転車は元々ブレーキのないものが正統な形ではあるが、自転車の運転者や、それを許可する法律によって、そのような自転車に乗るかどうかが決まってくる。ほとんどの国では最低1カ所のブレーキ設置が義務づけられ、許可されている国はごく少数となっている。

 ピストバイクの文化は、国際文化であると言える。ここで少なからぬ役割を果たしているのが日本だ。1948年、自転車競技法が成立し、競輪が誕生した。6~9名の選手がバイクのペーサーに続いてスタートするが、このペーサーを追い抜いてはいけない規則だ。主催者しか知らないある時間になると、ペーサーは撤退し、競輪選手が速度を上げて行く。

 ほとんどの競輪選手の収入源が自転車便であること、また軽量な体重とトレックレーサーの速度などを考慮した上で、固定ギア付き自転車に乗るようになったのである。

 80年代に入ると、ニューヨークやサンフランシスコのメッセンジャーもこの自転車に乗るようになり、それが独自の現代的なスタイルで、サブカルチャーとして生まれたのである。2000年代に突入してしばらくすると、常に新しいおしゃれなものを追い続け、ゼロから短時間で熱狂をつくりあげてしまうブルックリンのヒップスター、すなわち流行に敏感な人間の熱いまなざしがそこに集まるようになった。

 現在、世界中の多くの都市にグループがある。「ピストバイク・ロンドン」は、極めて好奇心旺盛な集団で、マウンテンバイク、BMX、クルーザーから、「ママチャリ」にいたるまで、あらゆる種類の自転車に固定ギアをつけようというのが活動の主旨である。

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モスクワの7つの丘から下る 

 モスクワでは4年ほど前から活動が始まり、2009には、「ライブジャーナル」というブログサイトから立ち上げられたピストバイク・モスクワが大きくなり、独立するまでにいたった。グループを象徴するマークには、モスクワ市の紋章「ゲオルギー・ポベドノセツ龍退治の姿」を採用した。ただし、龍の代わりにポベドノセツを自転車に乗せるという、決定的な特徴を加えた。

 グループの活動目的は、ピストバイクやそれをめぐるメンバーのライフスタイルの人気を高めることにある。モスクワ市中心の、クレムリンから北東部に進んだ丘の多い地区に、かつて「ミエスト(場所)」というお店があり、このサブカルチャーである都会の文化の普及に大いに貢献した。

Fixed Gear Moscow from Alex Goncharenko on Vimeo.

 

Fixedgearmoscow from Oskars Pastars on Vimeo.

 

FGM in Saint Petesburgh from mikly on Vimeo.

 いかなる問題があっても、メンバーが活動を停止することはない。それは天候も同じだ。真冬の2011年1月に「騎士の演習」と称する走行練習が行われ、2月にはモスクワ北西部にある2kmのトンネルを走行した。

 

 今年9月初めには、モスクワからサンクト・ペテルブルグまでをピストバイクで完走するという快挙も成し遂げている。今年に入ってから、活動がサンクト・ペテルブルグ市で急速に広がったため、この二都市の仲の悪さはさておき、誰かがこれをやらなくては、という空気が流れていた。4日間で延べ700km近くを走り抜き、その様子を随時ブログ(http://ifidienobodywillcry.tumblr.com)に掲載していった。このような冒険的行為が成功すると信じた人は少なく、メンバーの中には500ルーブル賭けた人もいた。

 冒険こそが、この活動の醍醐味なのだ。結成された年の晩秋、モスクワ五輪の際に建てられた、「オリンピック」水泳競技場の屋根を走ろうという計画が持ち上がった。競技場の屋根の形状には特徴があり、自転車用トラックに似ているのだ。

 早朝、メンバーの一部が屋根の上に上がった。屋根の表面はすでに凍結していたため、開始前に氷を割る作業から入った。日が昇る頃には準備が完了し、警備員に見つかるまでの2時間、走りを満喫した。しばらく注意を受けた後、メンバーは解放された。

 競争心と文化は、切っても切り離せないものだ。一昨年前、ルジュニキのスキースクールで、コンクリートのコースを走ったこともある。ピストバイク・モスクワは、昨夏にはバイクポロの試合、冬には「騎士の演習」を行っている。ニューヨークから来た過激な自転車ロード・レース「アレーキャット」は、決められた通過点を通って走行して時間を競うもので、定期的に開催されている。

 ロシアのレースでは、主にこの通過点がバーやパブに設定され、立ち寄って一杯飲み、そのレシートを持ってこなければいけないのだ。タイムもさることながら、血中のアルコール濃度まで評価対象となる。ただし、スタート前の登録時には、参加者が、健康や生活を脅かすような悪影響につながりかねない自分の行動に対し、全責任を負うという宣誓を行わなければならず、これが参加条件としてサイトの広告に掲載されているのがポイントだ。「温かくして、アルコールに対する自分の耐性をお考えください。」という忠告も一応書いてはある。

 ブレーキやペダルの遊びがない自転車で走る上、控えめに表現するならば、公道で少々混乱した動きを起しかねないアルコールの耐性の差にもかかわらず、まだ重大なケガや事故などは一件も起きていない。参加者のひとりであるミハイル・ラシコフスキー氏は次のように説明した。「グループの主要なメンバーとなっているのは、それなりの知識のある大人なんです。子供よりも大人向きの遊びです。メンバーの平均年齢は27~35歳で、私自身ハマったのも、生活がかなり安定した時期でしたから。」

 こうなる理由のひとつに、自転車の価格が高いことがあげられる。できるだけ価格を抑えたいと考える人が多く、モスクワ、サンクト・ペテルブルグ、またロシア国内の都市や、この文化が広がっている旧ソ連諸国の都市のバイカーが好んで購入するのは、ソ連時代の自転車競技で主に使用されていた、80年代のハリコフ自転車工場のフレームで、ここで製造される自転車は最も安くなっている。ただし、値段だけの問題ではなく、やはりスタイルや部品選びのセンス、また配色が重要視されている。

 モスクワでピストバイクのファンの数が増加し、ブームとなっている今、一部の部品はいまだに「作りだす」か、外国から購入しなければならない。自転車店は決して多くはなく、グループの掲示板や人気の自転車愛好家向けの掲示板では、部品の「調達劇」が繰り広げられている。ロシア国内では、完成品の自転車を購入できるサイトが「コンストルクトル」というメーカーのものに限られている。このような状況でも、自転車の職人工場は昔から存在しているし、わざわざ苦労して調達活動をしたくないと思う潜在的な参加者がいるとすれば、選択肢はある。

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レディー、ステディー、ゴー! 

 午後4時半、モスクワ中心部にある有名なストリート・ファッションの店の前には、ぞろぞろと人が集まってきた。プシェニチナヤ通りには、正統派のミニマリストから、目がチカチカするような、あり得ない組み合わせのものまで、色とりどりの自転車がずらりと並んでいる。

 コースには環状線のサドボエ・カリツォー内にある12カ所の通過点が設置され、うち3カ所は全参加者に通過義務があり、5カ所はくじ引きで指示を受けた参加者のみとなっている。登録が終了し、主催者が平均的数字とする、29名の参加者が準備完了となった。ブレーキが付いていたのは7名、ランプが付いていたのは5名、ヘルメットが付いていたのは4名。

 29人中1名は、ジェーニャという女性参加者であった。本人によると、夏のナイト・レースではもっと女性参加者が多く、40名中4名だったという。

 このジェーニャは、なんと、前回の優勝者だった。「めっちゃキツかった」が、今日はまた楽しみにして来たそうだ。前回は1位到着で、タイムと血中アルコール濃度のどちらも最高値だったそうだ。到着時のアルコール検査では、濃度が1.1パーミルだったとのこと。到着した時のことは記憶になく、5カ所を過ぎた後は大変だったらしい。それからは、レースの「競争」の部分に対しては興味を失ったものの、ルートを走ること自体を楽しみたいと思っている。

 主催者兼参加者であるセルゲイ・クムチー氏と話をすることができたため、これから始まるレースについて聞いてみた。答えからは、食傷気味であることがうかがえた。「レースかい。まったくやる気が起こらないもの。冷めているもの。自分的な旬は過ぎ去ったね。」

 意気消沈や疲れというものは、「流行」のような瞬時に熱するものならば、何に対してでも起こる特徴だ。ニューヨーク、サンフランシスコ、ロンドン、東京などでもあったように、自然な燃え尽きであって、後は熱狂的な愛好家のみが残るだけで、レース自体のシンボルやステータスといった価値は薄れていくのである。

 とりあえず店の前では、フレーム、部品、フロントとリアのスプロケットなどの話が尽きなかった。地図で一番短いルートをポイント毎に説明している人もいた。

 午後6時15分、やっとスタートした。鮮明な色合いの優美な自転車が約30台、プシェニチナヤ通りを一斉に進み始め、多くの人の第一通過点は、ロジュデストベンカ通りのバーとなった。

 ゴールは、今回のレースのスポンサーにもなった市内有数のパブだった。最初にゴールした参加者は、一時間強のタイムで血中アルコール濃度が0.2パーミル。5分後に到着した2位の参加者も0.2パーミル。2~3分毎に次から次へと単独ゴールやペアでゴールしてきた。通過点の位置に確信がなく、小さなグループで走る人が多かった。一番酔った状態で到着した参加者の濃度は0.8パーミル。

 何の問題もなく、皆が無事に到着した。それぞれが自分のルートで見たことなどを話していた。一番おもしろかったのは、あらゆる政府関係者が黒塗りの車で走っている道として有名な新アルバート通りの専用レーンを走った参加者の話だ。サドボエ・カリツォーとの交差点で、その参加者は警察につかまりそうになったが、その追跡の様子を見ていた対向車の3列が車を止め、自転車の逃げ道を作ってくれたのだ。全員に通過義務があったのは、スラッシュ・メタルで有名な場所である、キタイ・ゴーラドのチェブレキ食堂、ノボクズネツカヤの飲み屋、また、休日だったものの、ニキツカヤのシャシリク食堂であった。

 午後9時には、あえて競争にこだわらなかった人の多くの人がゴールしていた。表彰式の後、モスクワの最高の伝統に従って、パーティーが行われた。市内の多くのディスコ・クラブではハロウィンを祝っていたが、皆そのことはすっかり忘れ、仮装して走ろうとしていた計画も実行にはいたらなかった。

Fixed Gear Moscow from duffus on Vimeo.

 今年は、多くの人や企業に対して、自動車から自転車への移行が呼びかけられていた。去年からは自転車用駐車場の整備が始まり、モスクワに自転車専用道路をつくろうとする話も持ち上がったが、まだ実行される気配はない。モスクワ市民の中で、自転車を交通手段として使おうとしている人は増加していて、ピストバイクの活動もその流れに無縁ではない。

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