コンスタンチン・メリニコフは長命だったが、設計と建築に積極的に携わったのは、1920年代半ばから1930年代半ばまでのわずか10年に過ぎない。この10年間に彼の構想で27の建物が、主にモスクワ市内で建設された(そのうち16の建物は今も現存している)。図面に残されている設計は70以上だ。彼の作品は一般に構成主義建築とされているが、メリニコフ自身は、自分の設計が何かのスタイルに属すものであることを否定し、どの設計も、先行するすべての設計に全く似ているはずがないと確信していた。そうでなければ設計に何の意味があるのかと。
1.バフメーチエフスキー・バス操車場のバス・ガレージ(オブラスツォフ通り19‐a番地)、1926~27年。
セルゲイ・ファデイチェフ撮影/タス通信
彼の最初の建築となったのは、1923年にモスクワで開催された全ソ農業・手工業博覧会の「マホルカ」パビリオンだ(現存せず)。外から見えるように設置された螺旋階段、ガラス素材、広告プラカードの大きな平面を備えた独創的なフォルムは、ソ連アバンギャルド全体の発展に影響を与えた。その2年後に35歳のメリニコフは世界的な栄誉を獲得する。1925年パリ装飾工芸万国博覧会でメリニコフが設計した「ソ連パビリオン」は、ル・コルビュジエの「レスプリ・ヌーヴォー館」さえ圧倒した。
メリニコフの黄金時代の始まりだった。メリニコフはパリで注文に応じて2つのガレージを設計した。そのひとつは非常に独創的なもので、多層階から成り、セーヌ川に架かる橋の上に設置されるはずだった。フランスから帰国したメリニコフは、いくつかの手法を取り入れ、モスクワに2つのガレージを設計した。バフメーチエフスキー・ガレージはバス用のガレージ(現在、ここにはユダヤ博物館がある)、もうひとつは貨物車両用ガレージだった。2つのガレージの新しい特徴は、駐車場への出入りが別々のゲートから行われ、バックさせずに車の出し入れが可能になるという移動システムだった。バフメーチエフスキー・バス操車場ガレージは、設計上、平行四辺形の形をしており、車庫側面の出っ張りがバスの停車線を強調している。
2.ルサコフ公共事業従業員同盟クラブ(通称「ルサコフ労働者クラブ」)(ストロムィンカ通り6番地)1927~29年。
セルゲイ・ファデイチェフ撮影/タス通信
1920年代後半に勤労者の文化施設としての労働者クラブが広く普及した。1927~28年にメリニコフは7つのこうしたクラブの設計を行い、うち5件は実際に建設された。どのクラブでも彼は、建物の斬新な外観と内部空間の合理的利用に、同じくらい配慮している。ルサコフ労働者クラブでは、客席のアンフィシアターから3つの桟敷席が伸びており、外から見ると、ファサードにかぶさった形になっている。可動式の仕切りにより、そこは客席の一部としても独立した集会室としても使用できる。当時の劇場には桟敷席やボックス席がなかった。ソ連市民には貧富の差がなく、空間は一律でなければならなかったが、メリニコフはこの単純化に補正を施している。この手法には少なからぬ激しい批判が寄せられたが、後にこの手法は、ドイツのブッパータール公共プール、ウィーン都市ホールなど、積極的に建築に利用された。
3.ブレベーストニク履物工場クラブ(第3ルィビンスカヤ通り17番地)、1928~30年。
ユーリイ・アルトモノフ撮影/ロシア通信
メリニコフのクラブの設計には一つとして同じ設計はない。彼にとって類型よりも個性の方が重要だった。ソ連国内の彼の設計は独立した存在であったが、それに比べると、その他すべての設計は、1つの理念のバリエーションのように見えた。興味深いことに、彼が生み出した新機軸は施工関係者を憤慨させたが、発注者からは大歓迎された。誰もが独創的な設計を望んでいたのだ。ブレベーストニク工場のクラブとして、細長い敷地に長方形の棟が建てられ、そこに客席が配置された。しかし最も重要なアクセントになっているのは、小さな仕事部屋をいくつか備えたガラス張りの五弁の塔である。
4.メリニコフ邸(クリボアルバツキー小路10番地)、1927~29年。
PhotoXPress
この一家族用住宅は最も独創的なソ連アバンギャルド作品のひとつであり、様式の宣言というよりも設計者の建築思想の宣言である。自身と家族のために、メリニコフの設計にもとづき、活動の絶頂期にメリニコフによって自費で建設された、この住宅は、個人所有を廃止したソ連という国に偶然あらわれた事実上最後の豪華な私邸となった。径は同じだが高さの異なる2個のシリンダーが互いに「接合され」、設計上、8の字を構成している。実験的に、片方のシリンダーには大きなスクリーン窓を残し、もう一方のシリンダーには、レンガの積み方の変化によって生まれる多くの六角形の小窓を作っている。こうして同じ形状と同じサイズをもつ2つのスペース(書斎とアトリエ)が現れ、スペースの感覚と雰囲気は、光の働きにより、それぞれ大きく異なっている。
5.ゴスプラン(国家計画委員会)ガレージ(アビアモトールナヤ通り63番地)、1934~36年。
ルスラン・クリヴォボク撮影/ロシア通信
芸術処理の大胆さにおいてメリニコフの最後の建築物のひとつであるこのガレージは、少なくとも半世紀は時代を先取りしている。重厚な修理棟には垂直の「フルーティング(縦溝)」が走り、丸窓のついたガレージ本体は巨大な深海潜水艇のようだ。1933年にメリニコフはミラノ・トリエンナーレに、世界の12人の代表的なアバンギャルド建築家(その中にはオーギュスト・ペレやル・コルビュジエもいた)とともに、招待個展作家として招かれ、メリニコフは最終的に世界建築史に名をとどめることになった。しかしソ連国内では、台頭してきたスターリン・アンピール様式の中で彼の理念は居場所がなくなり、1938年までには完全に建築活動から追放された。さらに事態が悪化することもあり得たが、レーニンの遺体を安置するために1924年にデザインしたガラスの棺(これは戦争間際まで使用された)が彼を弾圧から守った。その後36年間にわたってメリニコフは隠遁者のように生き続け、回想録を書き、教鞭をとることになる。
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