建築家クズネツォフの家=Lori/Legion Media撮影
詩人達の「白銀世紀」が衰退しつつあったちょうど100年前、モスクワ中心部のマンスロフスキー横町に、建築家アレクサンドル・クズネツォフが自分の邸宅を建設した。外部には太陽の門、小さなくぐり戸とポーチがあり、内部にはオランダ式暖炉、メザニン(中二階)の書斎、ステンドグラス、タイルがある。
クズネツォフは妻、息子、娘とこの家に暮らしていた。氷切り係は春になると、セラー用にモスクワ川から氷を運んでいた。主の客人としては、ロシア・モダン(アール・ヌーヴォー)様式の建築家フョードル・シェフチェリ、構成主義の建築家コンスタンチン・メリニコフなどが来ていた。
ロシア革命後、クズネツォフはソ連の辺境に工場を建設し、逮捕された。屋根が平面で、敵の飛行機が着陸できるという理由で。クズネツォフは服役中にソビエト宮殿を設計した。
スターリン、フルシチョフ、ブレジネフが死去し、ゴルバチョフ時代に突入し、ペレストロイカが進められ、ソ連が崩壊。この地区は1平方メートルあたりの地価が高騰したことで「黄金マイル」と呼ばれるようになり、新しい著名な入居者があらわれるようになった。
小さなくぐり戸のある家には現在でもクズネツォフの孫とその家族が暮らしており、壁面には相変わらずブドウが生い茂り、暖炉も使われている。子孫はこの邸宅から引っ越そうとはしない。「家族の巣は非売」だという。
エフゲーニア・ペトロヴァ撮影/ロシア通信
その近くのプレチステンスキー横丁に建物が見える。ガラス張りの屋根が温室のように見えるため、農業アカデミーのあるティミリヤーゼフ通りにあったら、あまり目立たなかっただろう。
これは「労働者とコルホーズの女性」像の作者であるヴェラ・ムヒナの自宅兼工房。1947年に自分で設計した。この時、「スターリンの擬古典主義」のイデオローグである建築家ジョルトフスキーの協力があったと考えられている。ロシア革命前、舞踏会に通っていたムヒナは、1960年代までには、公認の“生きた古典”になっていた(彼女は1953年に死去)。
ムヒナはこの家で晩年の6年を過ごした。ゴーリキー像、チャイコフスキー像、有名な”彫刻版プラカード”「我々は平和を求める」の下絵をここで作成した。
黄色い外壁には、70年前と同様、ツタが生い茂っている。ムヒナが植えたリンゴの木は、毎年夏にたくさんの実をつける。ポーチの前では物干しロープに所有者の洗濯物が干されている。今ここに暮らしているのは、ムヒナの孫娘とその夫と息子。立ち退きを求められたり、この家を博物館にしないかと言われたりしたことはないと話す。子孫にとって幸いなことに、ムヒナの家よりも、彫刻作品への関心の方が高いようだ。
Lori/Legion Media撮影
構成主義の建築家コンスタンチン・メリニコフの有名な家で、アヴァンギャルドの傑作である「蜂の巣」は、優れた建築作品としてだけでなく、子孫の相続争いが長引いたことで注目されてきた。
クリヴォ・アルバツキー横町にひっそりとたたずむこの家には、数十年間、メリニコフの孫娘のエカチェリーナ・カリンスカヤさんが暮らしていた。
家に招き入れられたごく少数の幸運な人々の前には、信じがたい光景が広がっていた。木造の古いフェンスと薄暗い庭、割れたポーチ、木製の床、拭かれていない窓。建築教科書にも書かれている玄関には、庭の手押し車から履き古された雨靴までの、さまざまなガラクタが置かれていた。アンティークなソファの上では子供たちが遊び、1920年代の貴重なじゅうたんは洗浄掃除機で掃除されていた。
エカチェリーナさんとエレーナさんの姉妹は何十年もの間、コンスタンチンの息子である、父親で芸術家のヴィクトル・メリニコフさんと対立してきた。その後、この家の相続問題や保存の方法などでもめた。家の運命はたくさんの裁判にゆだねられた。ヴィクトルさんは遺言で、この家を父親の記念博物館にし、コンスタンチンのさまざまな遺品や記念品を置き、国の管理下に置くよう指示。2014年2月、博物館が開業した。
コンスタンチンとヴィクトルさんの人生と創作活動をテーマにした博物館の展示物は、この家ではなく、ヴォズドヴィジェンカ通り近くに展示されている。常設展は2016年に始まる予定。
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