構成主義という建築

ロシア革命後の1920年代初頭、労働者たちには工場ばかりでなく一日の激務の疲れをいやす施設も必要となった。交通網が発達し、都市人口が増加し、首都そのものも肥大していくという新たな状況下で、建築の装飾的要素は無用の長物とみなされた。そこに登場したのがアバンギャルド運動としての構成主義であった。社会主義の高揚期という雰囲気の中で、時代の先駆者と自負する建築家たちによって数々の傑作が生まれた。そうした建築物も今は老朽化の試練に直面している。

構成主義とは

1920年代のソ連芸術(建築、デザイン舞台美術、ポスター、写真)における潮流。形態の簡潔さ、厳格さ、幾何学性、外観の一体感を特徴とする。

構成主義者たちは上辺だけの華美を排して物的形態の簡素さや実用性を重視し、そこに民主性および新たな人間関係の具象化を見ていた。

代表的な建築家はベスニン兄弟、メリニコフ、ギンズブルグ、リシツキーなど。

革命後の1920年代 

革命と第一次世界大戦は社会構造を一変させ、女性たちも家庭を離れて働きに出るようになった。

 彼女たちには、もはや一人の男性のために食事を作る暇はなく、集団生活で速まる労働のテンポにたち打ちできる共生型住宅が必要であった。そうした急激な変化についていけない人たちに対しては家庭中心の生活が維持される移行期向けの住宅が提案された。

 建築家モイセイ・ギンズブルグがイグナチイ・ミリニスと共同で設計した財務人民委員部の建物は今もノビンスキー並木道にあり、精神文化学の研究のために開放されている。

 ギンズブルグは建築における構成主義の原理を最初にまとめた一人であり、その著『様式と時代』の中で、「間断なき生活の機械化」が起こり、ありとあらゆる機械が「私たちの生活、心理、美意識の新たな要素」になった、と記している。

 建築家たちは住民に必要な空間を確保し、人間と機械を調和させるという難題に直面した。

 彼らは幾何図形や簡潔さにひかれた。「芸術のための芸術」を放棄したものの、あらゆる対象をできる限り有益かつ魅力的なものにする手段としての新たなデザインを考案した。

 建築は一切の無駄の排除と個々のエレメントの合理的利用を旨とした。エレベーターシャフトが建物の正面を飾ることもあれば、時計と拡声器と広告が単一の装飾アンサンブルを形づくることもあった。硝子は構成主義に極めて特徴的な素材の一つとなった。大きな硝子のエレメントはコンクリートの壁と対照を成して工業様式を際立たせていた。

 イーゴリ・ゴロソフは1925年にズーエフ名称文化会館を設計する際、硝子の円筒を中心に据えた。それは工場の荷揚げ用エレベーターを想わせ、建物が誰のために建てられたかを示した。

 建築家たちは窓の形状でも幾何図形を用いて実験を繰り返した。エーリ・リシツキーの設計が具現された第1サモチョーチヌイ小路の『アガニョーク』の印刷所は大きな四角い窓と小さな丸い窓を併せ持つものだった。

 モスクワでおそらく最も有名な構成主義の建物を設計したコンスタンチン・メリニコフは自宅兼アトリエの壁に小さな六角形の窓を設えた。「8」の形に二つの円筒が連なるこの時代の傑作はモスクワの観光名所にもなっている。

 一方で、1920ー30年代に建てられた多くの他の建物は建築文化財のリストに含まれていないため撤去される恐れがある。前世紀に設計されたそれらは、住人の数が余りにも少なく、いつでも現代的な高層ビルに建て替えられる可能性がある。

 プロジェクト『モスコンストルクト』の創始者たちによれば、アバンギャルド時代の住居の「人間に見合った」大きさ、こじんまりとした中庭の心地よさなどは、新築の巨大な居住コンプレックスも及ばない。

 しかし、老朽化した住宅の不便さを嘆くモスクワっ子もいる。こうした市民の感情は、モスクワの建築の将来を気に懸ける専門家たちのもう一つの不安の種となっている。

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