モスクワ郊外のペレジェルキノは作家村であるが、この作家村を作るというアイデアは、国外にある郊外の家で過ごした経験をスターリンに伝えたマクシム・ゴーリキーの発案だったといわれている。ソ連時代、ここにはコルネイ・チュコフスキー、エヴゲーニー・エフトゥシェンコ、ブラート・オクジャワをはじめ、多くの作家が住んでいた。
ここに住んでいた作家でもっとも有名なのがボリス・パステルナーク。1939年に移り住んだ木造の家で、詩を書き、翻訳をし、そして生涯をかけた作品である小説「ドクトル・ジヴァゴ」を執筆した。パステルナークは1958年、この家でノーベル賞受賞の報せを受けた。その後、受賞と外国での小説の出版に対し、2年におよぶ迫害を受けた後、1960年、この家で死亡した。
比較的短かった人生の間にチェーホフはいくつかの都市に暮らした。ダーチャも数多く、少なくとも3つはあった。
モスクワ郊外のメリホヴォには合わせて7年しか住まなかったが、有名な「6号病棟」、戯曲「かもめ」、「ワーニャ伯父さん」を含む42作品以上を書いた。また医師であったチェーホフは、屋敷に外来用の診察所を作り、地元の農民たちを無償で治療した。
1898年、チェーホフはクリミアのヤルタ近くに家を買った。チェーホフは結核を患っていたため、この地のきれいな空気が療養に必要であった。チェーホフが「白いダーチャ」と名付けたこの家で、「3人姉妹」、「桜の園」、そしてクリミアを舞台にした「子犬を連れた奥さん」を執筆した。
クリミアにはもう1つ秘密のダーチャがあった。1899年にクリミア半島南端で購入したグルズフのダーチャは、栄光から逃れ、彼を訪ねてくるファンたちから逃れるためのものであった。
プスコフ州は現在、偉大なる詩人プーシキンを記念して、「プーシキンスキエ・ゴールィ」という名の文化保護区となっており、そこにはプーシキンとプーシキンの作品にちなんだ3つの屋敷がある。生まれた領地のミハイロフスコエを度々訪れたプーシキンだが、1824年から1826年にかけて、自由思想的な詩作を創作したとして、2年間流刑された。ここでプーシキンは地元の風景にインスピレーションを受けて、韻文小説「エヴゲーニー・オネーギン」の執筆を開始したほか、多くの詩を書き上げた。
もう1つの家はニジェゴロド州にある。ボルジノでもプーシキンは隠遁生活を送っていたが、これは自由思想によるものではなく、コレラによる隔離のためであった。プーシキンがこの家で過ごした1830年の「ボルジノの秋」と呼ばれる時期には、もっとも多くの作品が生み出された。ここで「エヴゲーニー・オネーギン」を完成させたほか、「ベールキン物語」、「小さな悲劇」など30を超える詩を書いた。
おそらく、ロシアでもっとも有名な文学に関連する屋敷は、レフ・トルストイの人生と密接に関係している。トルストイはここで生まれ、人生の大半をここで過ごし、「戦争と平和」、「アンナ・カレーニナ」、その他の重要な作品を執筆し、ここで埋葬された。トルストイはここで農家の子どもたちのための学校を作り、トルストイを愛する人々がここに集まった。そして現在は多くの観光客が「ヤースナヤ・ポリャーナ」を訪れている。
ツルゲーネフは長い期間、外国で暮らしたが、夏にはオリョール近郊の家族の領地を訪れた。ツルゲーネフはロシアのダーチャを舞台にした作品を書いた作家と呼んでもよい。ツルゲーネフは、この「スパスコエ・リトヴィノヴォ」で「父と子」、「ルージン」、「その前夜」、「貴族の巣」などを執筆した。とりわけ、ツルゲーネフが考案した「貴族の巣」というタイトルは、普通名詞化した。
ロシアの主要な農民詩人は、オカ川のいきり立つ岸の素晴らしい景色とカザンスカヤ教会の黄金の丸屋根を望む質素な田舎の家に生まれた。白樺とライ麦の穂が揺れる黄金の畑というこの辺りの景色がエセーニンに愛国主義的な詩作のインスピレーションを与えた。初恋の人に会うため、貴族カシーヌィ家の地主邸に通った。
詩人で哲学者で画家でフリーメーソンのメンバーでもあったヴォロシンの人生や創作についてはあまり知られていないが、彼のダーチャは文化的な場所となり、才能溢れる人々を魅きつけた。銀の時代の主要な詩人でアヴァンギャルド画家たちが20世紀の初頭、ヴォロシンの元を訪れた。ソ連時代には、自ら自分のダーチャを作家たちの休暇の場所として提供した。
銀の時代の主要な詩人であるブロックは、1881年から1916年にかけて毎年、このシャフマトヴォにある祖父の屋敷で夏を過ごした。広大な庭を散策し、植物の研究をし、自然にインスピレーションを得て、最初の詩を書いた。近隣の屋敷には偉大な化学者ドミトリー・メンデレーエフが住んでおり、ブロックはメンデレーエフの孫娘のリューバと結婚した。
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