アレクサンドル・ブローク:ロシア革命が圧殺した大詩人

Karl Bulla Photostudio/The Museum of Political History of Russia; Public Domain; Yury Annenkov
 詩人アレクサンドル・ブロークは、20世紀初頭、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクの真に輝ける星だった。革命にインスパイアされて、新政府に協力しようとするが、ついに新秩序を受け入れることができず、悲劇的な死を遂げた。

1. 化学者メンデレーエフの娘と結婚

シャフマトヴォ別荘

 アレクサンドル・ブロークは貴族の出身。1880年に帝都サンクトペテルブルクで生まれ、生涯そこに住んでいた。しかし夏は、モスクワ郊外にある祖父の領地シャフマトヴォで過ごした。隣家は、ドミトリー・メンデレーエフの邸だった。彼は伝説的な化学者で、元素周期表を作成した人物だ。 

 メンデレーエフ邸には、クリエイティブな雰囲気が漂い、幼いブロークを含め、周囲の貴族の子供たちがみんなで雑誌を編んだり、詩を書いたり、劇を上演したりした。

「ハムレット」の場面。アレクサンドル・ブロークはハムレット、リュボーフィ・メンデレーエワはガートルード。ドミトリー・メンデレーエフの邸、1898年の夏。

 そこでブロークは、メンデレーエフの娘リュボーフィに出会った。詩人の処女詩集『うるわしの淑女』は彼女に捧げられている。1903年、ブロークとリュボーフィは、シャフマトヴォ近くの教会で結婚した。

 二人は生涯連れ添ったが、リュボーフィは、夫の親友で象徴派の大詩人アンドレイ・ベールイと恋愛関係になり、ブロークもまた、他の「うるわしの淑女たち」を愛したらしい。少なくともその何人かについては確証がある。リュボーフィは後に回想録を著している。題して『ブロークと自分自身についての事実と寓話』。

 

2. 謎めいた「見知らぬ女(ひと)」

アレクサンドル・ブローク

 ブロークの詩は、20世紀初めにロシアに広まっていた、文学の象徴主義の潮流に属していた。そしてブロークは、その最も輝かしい代表者の一人であり、サンクトペテルブルクで最も有名かつ尊敬される詩人の一人だった。彼の詩は、多数の象徴主義系の出版社によって刊行された。駆け出しの詩人たちは、ブロークに詩を見てもらうために、文字通り門前に列をなした。

 ブロークの詩は、隠喩に富んでいる。だから、文学研究者たちは、彼の言葉をまるごと文字通りに受け取ることは勧めない。ブロークのイメージは、彼らの意見では、重層構造をなしている。

 ちなみに、詩人は、哲学にも魅了され、友人の宗教思想家・神秘主義者ウラジーミル・ソロヴィヨフを大いに尊敬していた。

 ソロヴィヨフは、宇宙的な存在「ソフィア」について語った。その本質について、この哲学者は、「永遠に女性的なるもの」の形をとる、ある神性だとしている。

 こうしたイデーは、ブロークに大きな影響を与え、まず「うるわしの淑女」が彼の詩に登場する。それは、具体的な形では、リュボーフィ・メンデレーエワとして現われるが、形而上的にも現れる。つまり、生身の女性ではなく、束の間の儚いイメージとして認識されている。しかし詩人は、その存在を「予感」しているだけで、その感覚を失うこと、そのすがたが変わることを恐れている。 

『見知らぬ女』の挿絵、レオン・バクスト

 その後、神秘的な「見知らぬ女」のイメージが出現する。1906年に書かれたこの詩は、詩人に真の栄光をもたらす。

 この詩の主人公が、レストランで、一人で酒を飲んでいると、そこへ「見知らぬ女」が入ってくる。ほの暗さと霧と酔いのなか、彼は、自分が彼女を夢に見ているのか、空想しているのか、あるいはその女が実在しているのか分からない。

 演劇を愛するブロークは、連作『雪の仮面』も書いている。この詩では、劇の仮面と吹雪に隠されて、謎はいよいよ深まる。吹雪は、道を踏み誤らせるだけでなく、人生の道をも踏み外させる。

 さらに、ブロークは、19世紀には一般的だった、明確な韻律の規範から離れ、詩を音楽の流れのようにした最初の詩人の一人だった。彼はまた、創造のプロセスそのものを旋律になぞらえた。彼によれば、彼はそのプロセスの流れに身を委ねて、いわば自分が耳にした音を書き留めたのだという。

 

3. 1917年の革命をうたった代表的な詩を書く

 1917年の2月革命、臨時政府の出現をブロークは歓迎した。10月になると、ボリシェヴィキが権力を握ったが、当初、ブロークは革命という「音楽」に喜んで耳を傾けていた(そのため、彼は、作家イワン・ブーニンから大いに批判された。ブーニンにとって革命は、旋律ではなく不協和音にすぎなかった。ブーニンは革命後亡命し、後にロシア作家として初めてノーベル文学賞を受賞する)。

帝政時代の官吏の犯罪を捜査する臨時委員会で編集者として働いていたアレクサンドル・ブローク

 ブロークは、革命を歓迎しただけでなく、新政権のもとで職務に就きもした。帝政時代の官吏の犯罪を捜査する臨時委員会で、編集者として働き始める。当局は、ブロークの名声を宣伝の手段として、いわば自分たちの名刺の一つとして利用した。ところが、ボリシェヴィキが権力を握り、言論の自由を侵害すると、ブロークは自分が悲劇的状況に陥ったと悟る。

 1918年にブロークは、それまでとはまったく異なる詩『十二』を書いた。そのイメージは深遠で多義的であるため、文学研究者たちは、それを今日にいたるまで微細に吟味している。だが、その意味と作者のメッセージについて、共通の見解に達していない。

『十二』の挿絵

 『十二』は意図的に、粗野な俗語で書かれ、小銃を担いだ十二人の革命家の行進を描いている。ペトログラード(第一次世界大戦中にサンクトペテルブルクはこのように改称されていた)の路上は荒廃し、吹雪が荒れ狂っている。作者は、自堕落な女たち、浮浪者、居酒屋、犯罪を描写していき、行進する十二人についての次の詩行で締めくくる。

 「前方には血塗れの旗を掲げ/ 吹雪で何も見えぬ/ 弾丸で傷つかず(…)薔薇の白き花冠をいただき/ 前方にはイエス・キリスト」

 革命家や犯罪者を使徒になぞらえたことで、多くの象徴主義者、知識人、革命に反対する人々が、ブロークから離反した。しかし、現代の文学研究者たちは、キリストが革命を導く者として描かれているのか、それとも十二人がキリストを裏切って、処刑に引き立てていくのかで、意見が分かれている。

 

4. 真の詩は検閲を乗り越えられると考えた

 1921年、詩人アレクサンドル・プーシキンをしのぶ夕べが作家会館で開かれた。ブロークは「同業者たち」の前でスピーチしたが、それは大いに反響を呼び、広く知られるようになった。

 スピーチのなかで彼は、次の点について、自分の考えを述べた。すなわち、プーシキンとは何者か、詩人とは何か、詩の意義は何か、そして、詩の分からぬ「俗衆」とは何か。

 ブローク自身、プーシキンの詩に多くを負っており、こう述べた。詩人とは調和の子であり、彼の主たる使命は、自身の内部で荒れ狂う混沌と自然力から調和を認識し、それを言葉で表し、外界に伝えることである、と。

アレクサンドル・ブローク、キエフ、1917年。

 ブロークによれば、非常に自由な内面の持ち主のみが詩人になることができる。そして検閲は、詩作という偉大な業を妨げることはできない。たとえ、同時代の広範な読者には受け入れられなくても、本物の詩は、人々の心の中に反響を見出す。「私たちは死ぬが、芸術は残る」とブロークは結んだ。

 その一方でブロークは、検閲官らに警告し、新政府を批判しているようだ。「役人たちは、最悪の汚名を着ないように、せいぜい注意するがいい。連中は、自分たちの何らかの路線にしたがって詩を誘導しようとする。その際に、詩の密やかな自由を侵し、神秘的な使命を果たすのを妨げるのだ」

 ブロークの主な原則の一つは、詩は決して功利的であってはならない、ということだった。

 

5. 「もはや生きることができぬゆえに」死す

ペトログラードの冬

 ブロークの確信するところでは、ボリシェヴィキは、創造に不可欠な内なる自由を彼から奪った。詩人は詩を書けなければ死ぬ――もはや生きる理由がない。こうブロークは思った。

 革命の結果あじわった苦しみは痛切で、彼はほとんど書くのをやめてしまった。ブロークにとって革命の旋律はもはや消えた。「すべての音が止まった…。もはやいかなる音も聞こえない。それをあなたは感じないのか?」。ブロークはこう言った。

 鬱状態、ストレス、革命下のペトログラードの寒く劣悪な環境、そして生計の手段の喪失…。これらが合わさって、ブロークは喘息を発症し、さらに壊血病にかかった。以前、彼は亡命を拒んでいたが、今はせめて外国で療養するために出国ビザを取得しようとした。しかし、ボリシェヴィキ政権は、決定をずるずる引き延ばし、ようやく許可を出したのは、詩人の死の数日前だった。

アレクサンドル・ブローク、1920年

 41歳の若さで、この街の史上最高の詩人の一人が、自宅で亡くなった。最後の日々には、彼は食事をとることを拒んだ。発狂したという噂さえ流れた。詩人ウラジスラフ・ホダセーヴィチは、「もはや生きることができぬゆえに」ブロークは死んだと書いている(ブロークの最後の日々について、より詳しくはこちらで)。 

 ブロークの葬儀の後で、詩人アンナ・アフマートワは、墓碑銘を書いた。そのなかで彼を「苦しみの中に消えた私たちの太陽」と呼んでいる。

 革命は、最高の才能たち――詩人、作家、音楽家、その他の創造的な人々――をさまざまな形で殺した。だが、ブロークが正しく予言したように、彼らは死んだが、芸術は残った。

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