イタリアの建築家を招いて頑丈で美しい建物を設計させることは、モスクワ大公国(15世紀から16世紀にかけて存在した近代ロシアの前身)では一般的だった。クレムリンを再建して以前の白い石造りから今日我々の知る特徴的な赤レンガ造りに変えたイワン3世(在位:1462-1505)は、アリストテレ・フィオラヴァンティ、アロイジオ・ダ・ミラノ、アントニオ・ジラルディ、ピエトロ・アントニオ・ソラリなど多くのイタリア人を雇った。彼らこそが、クレムリンの最初の塔と要塞の内側の教会や宮殿を設計・建設したのである。
ちなみに、当時のロシア人にはイタリア人の名前の発音が難しかったため、イタリア人建築家の大半が「フリャジン」(基本的に「イタリア人」の意)という共通の姓で呼ばれていた。
タイニツカヤ塔
A.Savin (CC BY-SA 3.0)有名なスパスカヤ塔などに比べてかなり控えめなこの塔は、どの塔にも先駆けて1485年に建てられた。塔の名は「隠し場所」を意味する「タイニーク」に由来する。実際に塔にはモスクワ川へ抜ける隠し通路があり、万一要塞が敵の手に落ちてしまった場合も、クレムリンの住民が逃げ出せるようになっていた。
スパス・スモレンスキー、スパスカヤ塔
Sergius (CC BY-SA 3.0)ロシアが十月革命まで敬虔なキリスト教国家であったことを考えれば、これは驚くことではない。スパスカヤ塔やニコリスカヤ塔などいくつかの塔は、聖人やイコンに因んだ名称が付いている。スパスカヤ塔を通る時は皆かぶり物を取ることが義務だった。塔の外側にあるキリストの肖像の下を通るからだ。
今でもクレムリンのいつかの塔でイコンの枠(あるいはその跡)を見ることができる。イコンそのものは、当然1917年に消えてしまった。
ナポレオンは、1812年にモスクワから撤退せざるを得なくなった(軍の食糧が足りず兵の大半が飢え、撤退を余儀なくされた)ことを苦々しく思った。そこでフランス皇帝は、モスクワへの餞別としてクレムリンの周りに爆発物を仕掛けるよう命じた。幸い、フランス人は失敗した。ヴォドヴズヴォドナヤ塔は完全に破壊され、他の塔も深刻な被害を受けたが、大半は持ちこたえた。損壊した塔は戦後に再建された。
ニコリスカヤ塔から「双頭の鷲」の除去
Mark Markov-Grinberg/MAMM/MDF/russianinphoto.ru革命後、クレムリンの塔の先端にあった帝国のシンボル「双頭の鷲」が赤い星に取り換えられた。これらの星はロシアそのもののシンボルとなったが、星があるのは5つの主要な塔、ボロヴィツカヤ塔、トロイツカヤ塔、スパスカヤ塔、ニコリスカヤ塔、ヴォドヴズヴォドナヤ塔だけだ。
これはもっともなことだ。クレムリン防衛の要となる3つの塔、ヴォドヴズヴォドナヤ塔、モスクヴォレツカヤ塔、アルセナリナヤ塔は円柱状に作られているが、他の塔は城壁の途中にある。だから四角いのである。
ベクレミシェフスカヤ塔(中央)
D.Ivanov (CC BY-SA 3.0)ベクレミシェフスカヤ塔は、モスクヴォレツカヤ塔(「モスクワ川の塔」)の名でより良く知られているが、16世紀には事情が違った。裕福で影響力のあったボヤーリン(貴族)のイワン・ベクレミシェフは、クレムリン内のこの塔の近くに居を構えており、それで塔も彼に因んで呼ばれるようになったのである。だが、1525年にベクレミシェフはモスクワ大公ワシリー3世と不和になり、大公の命で処刑された。だが名前は残った。
疑いの余地なく、この塔が最も有名だ。そしてロシア人は、新年を迎える際にこの塔をとても注意深く見守る。ここにクレムリンの時計があり、12回鐘を鳴らして年の移り変わりを象徴する。
なお、スパスカヤ塔がどれほど粋な存在か皆さんに知ってもらうための特集記事も組んである。
ちなみにクレムリンの時計についての記事もある。
すべての塔が等しく有名なわけではない。残念な名前の塔が2つあり、その名も「第一無名塔」と「第二無名塔」である。防御用の機能しかなく、面白いことは何もない。特に語ることはないので、次へ行こう。
クタフィヤ塔
Ludvig14 (CC BY-SA 3.0)見てほしい。白い。低い。しかもクレムリンの外にある。実際、これはネグリンナヤ川にかかる、クタフィヤ塔とトロイツカヤ塔とを結ぶ橋を守ることを目的に建てられた橋楼だ。ネグリンナヤ川は地上から姿を消して暗渠となったが、クタフィヤ塔と橋は残った。観光客はクタフィヤ塔を通ってクレムリンに入る。入場券売り場が塔のすぐ近くにある。
クレムリンへの入場方法を知るにはこちら。
それがボロヴィツカヤ塔だ。ヘリコプターを使わない場合の話だが。伝統的に、指導者の車列はこの塔の門を通る。スパスカヤ塔の門を使うのは、メインゲートが修復中の時だけだ。
ニコリスカヤ塔
Epifanvettis (CC BY-SA 3.0)ニコリスカヤ塔だけが他の「姉妹」と外観が異なることに容易に気付くはずだ。本来はスパスカヤ塔にそっくりだったが、19世紀初めにネオ・ゴシック様式に建て直され、白い石が透かし細工状に組み込まれた。聖ニコラスに因んで名付けられたこの塔の歩んできた道はなだらかではなく、1812年にはナポレオンとの戦争で、1917年には革命で損壊している。だが現在は元気そうだ。
トロイツカヤ塔
jimmyweee (CC BY 2.0)先端の星も入れれば、トロイツカヤ塔は80.1メートルだ。一方、このトロイツカヤ塔と橋でつながっているクタフィヤ塔は最も低く、13.5メートルしかない。
ツァールスカヤ塔
A.Savin (CC BY-SA 3.0)それがツァールスカヤ塔で、1680年にクレムリンの最後の塔として登場した。これはそもそも塔としての堅固な構造をしておらず、要塞防衛上の機能は全くない。壁の真ん中に突き出した4本の柱と屋根があるばかりで、装飾的な意味合いが強いようだ。伝承では、イワン雷帝がこの塔を赤の広場を見渡すために使っていたという。それで「ツァーリの塔」と名付けられたわけだ。
ツァールスカヤ塔のすぐ隣に、ナバトナヤ塔(「警鐘塔」)がある。1658年以来、ここには鐘があり、火災や暴動、その他の緊急事態に警鐘を鳴らすのに使われていた。しかし、1771年にモスクワで暴動が起こった際に反乱者らが塔を掌握し、民衆を集めるために鐘を鳴らした。憤慨したエカテリーナ大帝は鐘を鳴らなくするよう命じ、鐘の舌が抜かれた。1803年に鐘は完全に取り除かれた。
コンスタンチノ・エレニンスカヤ塔
A.Savin (CC BY-SA 3.0)17世紀後半、ツァーリのアレクセイ・ミハイロヴィチがコンスタンチノ・エレニンスカヤ塔の内部に牢獄といくつかの拷問室を設けた。人々はこの塔を、長く美しい名前の代わりにプィトチナヤ塔(「拷問塔」)と呼んだほどだった。数世紀の間、この塔は民衆に評判が悪かった。言い伝えによれば、時折塔の壁に血が染み出すということだった。
トロイツカヤ塔は唯一の「入居者のいる」塔である。1920年以降、クレムリン連隊の音楽隊がここにリハーサル室を有している。現在でも、ロシア高官やクレムリンを訪れる外国指導者の前で演奏を披露するロシア連邦大統領管弦楽団がここでリハーサルを行っている。
一般の観光客は絶対に無理だ。だがこれは、1948年以来ソビエト指導者がよく利用していた手段である。ソ連で最も「神聖」な場所、つまりレーニン廟の屋根から人々に語りかける必要がある機会は多かったが、クレムリンを出て赤の広場を徒歩で通るというのは非常に不便だった。
解決策は何か。最寄りのクレムリンの塔、セナーツカヤ塔とレーニン廟をつなぐ非公開の通路を通せば良いのだ。そこで建築家のニコライ・ヴィノグラードフがこれを実行した。現在では、おそらくこの通路が使われることはあまりないだろう。
アルセナリナヤ塔
Bjorn Christian Torrissen (CC BY-SA 3.0)この角の塔を見てほしい。かなり頑丈そうだ。実際、要塞の中で最も分厚い壁(約4メートル)を持つ。したがって、世界の終末が訪れてゾンビに取り囲まれれば、ここに逃げ込むのが一番だろう(もしモスクワのクレムリンの中にいれば)。
要塞の構造上、ゲルボヴァヤ塔はクレムリンの壁の建築群には属しておらず、城壁に守られた内側の宮殿と大聖堂のそばにあった。とはいえ塔には違いなく、ロシア諸都市の紋章で飾られていたため目立っていた。残念ながら、19世紀までに老朽化が進み、政府によって取り壊されてしまった。
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