ロシアにはクレムリンが20ほどある。だが、クレムリンと言って真っ先にイメージされるのは、モスクワのクレムリンである。この荘厳な建築群についての疑問に答える。
A. 青銅器時代(紀元前2世紀)に初めて人がここに移住した。城塞は、1156年にユーリー・ドルゴルキー公がカシの木で建設した。1366~1368年、ドミトリー・ドンスコイ大公は、木造の要塞を白い石灰岩に建て替えた。
1485~1495年、既存の要塞の壁と塔が建設された。モスクワ大公イワン3世は、イタリアから熟練した建築家を多く招いた。
ピョートル大帝の時代までずっと、クレムリンは公の住居であった。ピョートル大帝は自分の街を創設することを熱望し、ペテルブルク(現サンクトペテルブルク)をつくった。1917年、ボリシェヴィキが権力を掌握すると、ペトログラード(現サンクトペテルブルク)は首都の座を失った。ウラジーミル・レーニン率いるソビエト政権は、モスクワを首都にした。クレムリンはこうして、再び政権の中心になった。
1917年、ボリシェヴィキが起こしたモスクワでの蜂起は、多くの命を奪い、聖ワシリイ大聖堂の脇にあるクレムリンの施設は大砲の射撃を受けた。ソ連時代、元々あったクレムリンの54の施設のうち28の施設が撤去された。1947年、ヨシフ・スターリンの命令で、クレムリンの壁は、革命と共産主義の赤い色に塗りかえられた。
スターリンの死去から2年後の1955年、クレムリンは再び一般公開された(皇帝ニコライ2世が初めて一般公開を実施している)。1961年、クレムリン博物館が創設された。宇宙飛行士ユーリー・ガガーリンの娘のエレーナが、現在ここの館長を務めている。
ソ連崩壊後の1991年12月以降、クレムリンはロシア大統領の住居になっている。
イワン大帝の鐘楼、19世紀
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A. クレムリンの大きさを示す数字は以下の通り。
A. クレムリンの建物を4つのグループにわけることができる。
何世紀もの間に、クレムリンの敷地内に教会や修道院ができ、大聖堂広場を形成した。 今日、広場には3つの大聖堂を含む6つの建物がある。
クレムリンのどの建物も特別であるが、聖天使首ミハイル大聖堂は別格だ。 1505~1508年に、イワン3世の建築計画の一環として建設された。イワン1世からイワン5世までのほぼすべてのモスクワの君主は、ここに安置されている。
クレムリンには3つの歴史的建造物がある。
モスクワ・クレムリンに来たら、博物・美術館の訪問は必須。モノマフの帽子(君主用の最も古い工芸品の一つ)、アレクサンドラ・フョードロヴナ皇后の戴冠式の衣装、笏、オーブ、その他の素晴らしい展示品がある。
「モスクワ・クレムリンの博物・美術館」アプリを事前にダウンロードしておくと便利。貴重な情報が満載である。
A. 赤い壁、赤い塔、そして塔の上部にある赤い星。
これらは、ソ連の共産主義のシンボルだった。1937年に赤い星が設置されるまで、ロシア帝国を象徴する双頭の鷲がモスクワを見守っていた。「クレムリンの塔の輝く五角星」の記事も読んでみよう。
スパスカヤ塔の時計は、クレムリンだけではなく、モスクワのシンボルにもなっている。モスクワっ子にとって、年越しの重要なシンボルでもある。時計の鐘の音で新年を迎える。最初の鐘の音と最後の鐘の音の間に願いごとをすると叶うと考えられている。
A. クレムリン連隊(大統領連隊)。あらゆる面で特別かつエリートの部隊。政府関係者やクレムリンの施設の保護を担当している。
クレムリン連隊は毎日、大勢のロシア人や外国人が訪れる無名戦士の墓(永遠の炎)のわきに立っている。また、外国代表団の会合の名誉警備も行っている。
この連隊の隊員になることは簡単ではない。クレムリン連隊の応募資格の記事はこちら。
最も興味深い質問の1つであるが、答えは不可能と可能(理論的に)のどちらでもある。試してしまうと、ロシアの刑務所に入ることになる。ロシア・ビヨンドの回答はここにある。
ロシア政府の心臓部を旅したら、きっとお腹がすくだろう。クレムリンの近くにはこんなレストランがある。レーニンからゴルバチョフまでのソ連の歴代最高指導者の食事については、「クレムリンの食卓の秘密」の記事を読んでみよう。
「…について知りたいこと」シリーズは、ロシアにまつわる人気のテーマのガイド。新しいテーマを常に取り上げ、新しい情報を定期的に追加していくのでお楽しみに。
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