アクセス:モスクワのヤロスラヴリ駅から3時間半~5時間半(電車の種類によって所要時間が異なる)
ヴォルガ川とコトロスリ川の合流地点の風光明媚な砂州に、ヤロスラヴリの中心をなす、最古の部分がある。現在、歴史地区のすべてがユネスコの世界遺産に登録されており、砂州の先端にはヤロスラヴリ建都1000年を記念する碑が立っている。これほど長い歴史を誇れるロシアの都市は少ない。
ヤロスラヴリでやるべきことの簡単なチェックリスト
- この都市が誰に因んで命名されたか、建設したのは誰かを知る。
- コトロスリ川の発音をマスターする。
- ヴォルガ河岸を散策し、ロタンダでセルフィーする。
- 市の紋章(市章)となっている熊のイメージをせめて一つでも見つける(実は本物の熊もいる)。
- ヤロスラヴリ博物館を訪れ、この街の主な教会、聖堂を見学する。
- 預言者イリヤ聖堂を訪れる。この都市は「預言者イリヤの日」に建立されている。その壮麗な内部装飾は名高い。
ヤロスラヴリは、「黄金の環」の中で最大の都市だ。1010年、ロシアで最も成功した統治者の一人であるヤロスラフ賢公によって建設され、「黄金の環」ではロストフ・ヴェリーキーに次ぐ古さを誇る(ウラジーミルも、実は2番目に古い可能性があるが、その創設年代は正確には分からない)。
またヤロスラヴリは、中世ロシアの諸都市の中でヴォルガ沿岸に建設された最初の都市だ。こう言うと、カザンはどうなんだ、ヤロスラヴリより5年古いじゃないか、と反論する人がいるだろう。しかし、カザンがロシアに組み込まれたのは、16世紀中葉、イワン雷帝(4世)の治世でのこと。だから、これは中世ロシアの都市とは言い切れまい。
ヤロスラフ賢公(1世)は何で有名か?
この都市にその名が冠せられている歴史的人物に、とくに注意を払いたい。ヤロスラフは、ロシアにキリスト教を国教として導入したウラジーミル1世(聖公)の息子だ。数多くの教会を建立し、文化全般を発展させたのは、ほかならぬヤロスラフである。彼は、ロシア最初の成文法『ルースカヤ・プラウダ』(ルーシ法典)を編纂し、多くのヨーロッパ諸国およびビザンティン帝国との外交関係を確立した。
ヤロスラフ賢公の伝記は、成功したトップマネージャーの出世物語の一例のようだ。彼の経歴は、「北東ルーシ」、すなわちキエフの北東方向の地域で始まる。この地域の首都は、ロストフ・ヴェリーキーだった。だから、この時期は「ロストフでの治世」と呼ばれる。
その後、彼は、ヤロスラヴリ(ロストフから約60㌔)を建設した。しばらくして、父ウラジーミルはヤロスラフにノヴゴロド公の地位を与える。この地ははるかに豊かであった。なにしろ、中世ノヴゴロドは、ハンザ同盟にも入っている大貿易都市だったから。
その後、ヤロスラフは、父ウラジーミルがキエフ大公の後継者に弟を指名したがっていることを知った。「賢兄」はそれが気に入らず、父に反抗した(もっとも、父は間もなく死んだので、何もする暇がなかったが)。結局、ヤロスラフは、兄スヴャトポルクとの長い抗争を経て、キエフ大公となった。これはルーシ最高の位だった。
ヤロスラフはキエフに、有名な聖ソフィア大聖堂を建立し、ペチェネーグ族の襲撃から国を解放した。
また彼は、スウェーデン王の娘と結婚し、彼の娘アンナ・ヤロスラヴナは、フランス王アンリ1世に嫁いでいる!
ヤロスラヴリ博物館・保護区
ロシアの他の古都と同じく、ヤロスラヴリには多数の教会といくつかの修道院がある。もちろん、そのすべての見学に挑戦してみてもよいが、時間が足らず、我慢が続かないかもしれない。
ヤロスラヴリで必見の場所は、ヤロスラヴリ博物館・保護区だ。急峻な川岸にそびえる、分厚い城壁に囲まれた要塞――これは、一見クレムリンのようだが、実はそうではない。13世紀創建の、かつての救世主顕栄修道院(スパソ・プレオブラジェンスキー修道院)だ。博物館がここに設置されたのは1865年に遡る。当時、修道院は既に活動していなかった。
「聖なる門」をくぐり、必ず主要な聖堂、救世主顕栄聖堂(スパソ・プレオブラジェンスキー聖堂)を訪れてほしい。16世紀の建立で、ヤロスラヴリ最古の建物であり、今日まで保存されている。付属の建物には、イコンの大コレクションがあり、この地域の歴史――および中世ロシアを代表する文学作品『イーゴリ軍記』――に関する展示物もある。
この元修道院の博物館には、市の真のシンボル、雌熊の「マーシャ」がいて、彼女も「訪問」できる。
預言者イリヤ聖堂
要塞のほか、預言者イリヤ聖堂の見学をおすすめする。言い伝えによれば、まさにこの場所で、ヤロスラヴリの建設者、ヤロスラフ賢公が、預言者イリヤ(エリヤ)を記念して、この都市最初の教会の建立を始めた。その日は、この聖人を記念する正教会の祭日だったからだ。ロシア正教の伝統では、現在、この日は8月2日に祝われている。
現在の預言者イリヤ聖堂は、ずっと後の17世紀の建築だ。当時の教会建築の、そしてヤロスラヴリ様式の鮮やかな例である。その特徴は、「八角尖塔」の様式の鐘楼と、高い「地階」だ。その地階の上に教会が乗った形になっている。
ウスペンスキー聖堂(生神女就寝聖堂)
現在、この建物は、ヤロスラヴリの主教が奉神礼(カトリック教会の典礼に相当)を行う、市の主要な聖堂(主教座聖堂)であるが、実は2010年に同市の創設1千年を記念して建てられた「リメイク」だ。とはいえ、1215年に建立されたヤロスラヴリ最初の石造の聖堂はまさにこの場所にあった。そして、先の尖った三角形に似たこの領域全体は、「刻まれた街」と呼ばれ、もともとはこの都市の行政の中心だった。
数世紀の間に、聖堂は数回火災に見舞われては再建されてきた。ソ連時代には取り壊され、その跡地に公園が造られていた。
ヤロスラヴリ周辺で何を見るか?
ヤロスラヴリの近くには、「黄金の環」の他の都市――ロストフ、ペレスラヴリ・ザレスキー、コストロマー――がある(前二者については既に記事にした。コストロマーについても別に書く)。これらの都市のほかにヤロスラヴリ近郊には、いくつかとても面白い場所がある。それらは、「小黄金の環」とはいかなくても、十分「銀の環」とは呼べるだろう。
まずとくに注目されるのがルイビンスクだ。「海」と人々が呼ぶほど巨大なルイビンスク貯水池の岸辺にある。この街では、帝政時代の富裕な商人の生活の雰囲気が実感される。それというのも、かつてルイビンスクは漁業を営む、真の商業中心だったからだ。また漁業からルイビンスクという名も来ている(ルイバ〈魚〉が語源)。ここには、博物館「ルイビンスクの魚」さえある。
今では、旧市街が復元されており、美しい遊歩道と素敵な「赤の広場」がある。なるほど、レーニン像は立っているが、十分ヨーロッパの地方都市を思わせる。
ルイビンスクに関連して興味深いエピソードが二つある。ダイナマイトの発明者であり、ノーベル賞の創設者として有名なアルフレッド・ノーベルは、スウェーデンの起業家の息子だが、ロシアに長く住んでいたことをご存じだろうか?彼の父も祖父もロシアで事業を行い、彼自身と彼の兄弟はルイビンスクに石油関連施設を設立した!現在、ノーベル兄弟の博物館もある。
またルイビンスクには、やはり世界的に有名な別の兄弟、シェンク兄弟も生まれている。彼らはアメリカ映画産業の大立者であり、ハリウッドの基礎を築いている!
さらに、ヴォルガ川をクルーズして必ず「ネズミづくしの街」、ムイシュキン市を訪れてほしい。これは、こじんまりとした地方都市で、中心部に木造建築が立ち並んでいる。地元住民は、街の名に引っかけてホンモノのビジネスを展開している。
ムイシュキンというと、文豪ドストエフスキーの名作『白痴』のムイシュキン公爵を思いだされる方が多いと思うが、この町の語源もやはり、ネズミ(露語でムイシ)から来ている。
で、現在、ネズミは至る所にいる――本物のネズミではないが。例えば、ネズミをテーマとする特別な博物館があるし、ネズミをかたどった多種多様なお土産がどこでも売られている。
粘土製の小さなネズミは、買って財布に入れるとお金が増えるので、とくに価値があると考えられている。また、ヴォルガ川の大型クルーズ船が停泊する広場では、数十種類の新鮮な燻製魚が販売されている。
さらにクルーズを続け、ウグリチに立ち寄ってもいい(あなたは必ず閘門〈こうもん〉とウグリチ水力発電所の美しい橋を通過することになる。ただし、写真を撮るためにそこに止まることはできないので、ただ眺めを楽しんでほしい)。
ロストフを経由してヤロスラヴリに向かう途上には、極めて美しい「ボリスとグレープ修道院」がある。1363年の建立だ。通常、ここには観光客がほとんどいないので、静かで荘厳な修道院を散策し、鐘の音に耳を傾け、雰囲気を満喫しよう。