モスクワ周辺の古都群「黄金の環」の住民は、観光客を少しでも引き留めようと、ありとあらゆる手を打つ。「黄金の環」を構成する都市の一つ、ペレスラヴリ・ザレスキー(モスクワ北東140㌖)の場合、ほぼすべての建物に博物館がある。
「アイロン博物館」、「急須博物館」、「お茶の博物館」、「クワス(ロシアの黒パンで作る清涼飲料水)の博物館」、博物館「ロシア人が世界で最初に発明したもの」、ロシアの娯楽の博物館「ペトルーシュカ」、博物館「臨機応変の工夫」、博物館「ロシアの花瓶」、その他もろもろ…。という具合で、博物館だらけの状況はお分かりいただけるだろう。
ペレスラヴリ・ザレスキーのあの手この手の工夫を笑い、要するに、この街では見るものもやることもないんだな、と思うかもしれないが、実はそうではない。ペレスラヴリ・ザレスキーでは、中世ロシアの運命を左右する事件が何度も起きているのだ!
次は、ペレスラヴリ・ザレスキーですべきことの簡単なチェックリストだ。
ペレスラヴリ・ザレスキーとモスクワを建設したのは同一人物、ユーリー・ドルゴルーキー公だ。前者は1152年に築かれており、モスクワ建設のわずか5年後である。
ペレスラヴリ・ザレスキーには、この当時の「目撃者」が現存している。「救世主顕栄大聖堂」は、都市そのものと同じ年、1152年に建立されているからだ。
最初、この街は、ペレヤスラヴリと呼ばれていた。この名は、現代ロシアの源流をなす中世国家「キエフ・ルーシ」の最古の都市の一つを記念している。そのオリジナルの都市は「ペレヤスラヴリ・ルースキー」と言った(現在はキエフ州のペレヤスラヴリ・フメリニツキー)。
ザレスキーと呼ばれた理由は、この街が「ザレシエ」すなわち、「森の彼方」にあるからだ。ちなみに、中世においては、ヴォルガ川とオカ川に挟まれた地域は、やはり「ザレシエ」と呼ばれていた。別名は北東ルーシである。
時代は、群雄割拠する封建的な時代である。ユーリー・ドルゴルーキー公は、ペレスラヴリ・ザレスキーを首都に擬したことがあった。北東ルーシの公国を統合した地域の首都になり得るのではないか、と。その公国とは、豊かで強いウラジーミル、ムーロム、リャザンその他であった。
野心的なもくろみだ!ドルゴルーキー公は、自分の「生みの子」に多額の費用をかけ、沼地に巨大な都市を建設したが…。
しかし、ドルゴルーキー公が死去すると、この都市は意義を失い、モスクワの勢力圏に組み込まれてしまう。にもかかわらず、この街は数多くの歴史的事件を目にする。その光景は想像するのも恐ろしいほどだ。まず、「タタールのくびき」の時代に、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)により、何度も略奪、破壊に遭っている。
モスクワ大公のドミトリー・ドンスコイは、キプチャク・ハン国と戦うべく、ここへロシアの公たちを糾合し、「クリコヴォの戦い」で大勝した。
ペレスラヴリ・ザレスキーへのタタールの攻撃、破壊の一つは、美しい伝説と結びついている。
ペレスラヴリ・ザレスキーの「赤の広場」、アレクサンドル・ネフスキーの記念碑
Legion Media1382年、ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国)を再統一したトクタミシュ・ハンは、この街とゴリツキー修道院を破壊した。そのとき、ドミトリー・ドンスコイの妻エヴドキアは、ゴリツキー修道院へ祈祷に訪れていた。しかし、同市の人々は奇跡的に、エヴドキア妃を救い出すことができた。幾人かが妃を船に乗せ、プレシチェーヴォ湖の中央に向かって漕ぎ出すと、濃霧が立ち込め、タタール勢の目から彼らの姿を隠してくれたのである。後にエヴドキアは、自費で修道院を再建した――。
ゴリツキー修道院
Belliy/Wikipediaゴリツキー修道院は今日も、その壮麗な姿をペレスラヴリ・ザレスキーに見ることができる。
アレクサンドル・ネフスキーは、1221年にペレスラヴリ・ザレスキーで生まれている。侵攻してきたドイツ騎士団を「氷上の決戦」(チュド湖上の戦い)で打ち破り、ロシアを守った英雄だ。彼を記念して、この街の「赤の広場」に1958年にアレクサンドル・ネフスキーの胸像が建立されている。18世紀には、ここにアレクサンドル・ネフスキー教会が建てられた。これは、今日も教会として活動している。
プレシチェーヴォ湖
Legion Mediaこれも今となっては想像しにくいが、まさにここで、若き日のピョートル大帝(1672~1725)は、自分の最初の船を造った(当時、ロシアに海軍はなかった)。その後、「遊戯艦隊」を建造し、ここプレシチェーヴォ湖で演習に励んだ。これは、ピョートルが弱冠20歳だった1692年のことだ。サンクトペテルブルク建都開始のわずか10年前である!
ところで、ペレスラヴリ・ザレスキーの博物館「ピョートル1世のボート」には、「遊戯艦隊」のなかで唯一現存する「フォルトゥナ号」が展示されている。
ピョートル1世のボート、「フォルトゥナ号」
Belliy/Wikipedia現在、プレシチェーヴォ湖には、カイトサーフィンとウィンドサーフィンのスクールがある。この場所は、ピョートル大帝の帆船にとっても、現代のエクストリームスポーツの愛好者にとっても、順風が吹くのである。
ペレスラヴリ・ザレスキーからは近いが、あらゆる鉄道から遠い森の中に、「ペレスラヴリ鉄道博物館」がある。もしあなたが子供連れでここを訪れるなら、彼らは有頂天になるだろう。ここには、様々な時代の車両や機関車があり、しかもどの内部にも入れるのだ!
「ペレスラヴリ鉄道博物館」
Legion Mediaここでとくに楽しめるのが本物の軌道自転車に乗ること。自分で運転し、レールがなくなるまで、丸々3㌖疾走することができる。レールは、このアトラクションのために敷かれているのだ。
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