ブロツキーのペテルブルク:伝説的詩人ゆかりの8つの場所

オレグ・ポロホヴニコフ撮影/TASS; Getty Images
 ヨシフ・ブロツキー(1940~1996)は、20世紀を代表するロシアの詩人、随筆家で、1972年6月4日に、その創作が当局に睨まれてソ連から国外追放された。1987年にノーベル文学賞を受賞。亡命先のアメリカで亡くなったが、サンクトペテルブルクは心の故郷であり続けた。彼が愛され、裁判にかけられ、期待され、批判を浴びた場所はここだ。

 亡命後、ブロツキーはロシアを訪れることはついになかった。ソ連崩壊後、彼は再三、故郷のサンクトペテルブルクに招かれ、「名誉市民」の称号が与えられたが。

 にもかかわらず、この街はブロツキーの詩の、いわばまったき主人公だった。まさにこの都市で彼の人格形成は行われ、詩人となったのだから。彼をこの「北方のヴェネツィア」に分かち難く結びつけていた場所をいくつか挙げてみよう。

1.「ムルジの家」

リテイヌイ大通り24番地

 この建物は、幼いブロツキーにケーキを思わせたが、その2階の共同住宅(コムナルカ)に、ユダヤ系のブロツキー一家が住む「すみっこ」があった。後にブロツキーは、これを「一部屋半」と呼んだものだ。

 その「一部屋半」の中に、両親の部屋と、ソ連海軍の写真家だった父親のアトリエ、それにブロツキーの居場所とその蔵書が詰め込まれていた。彼は後年ニューヨークで、この家での暮らしについて「一部屋半」という題名の随筆を書いている。

「一部屋半」

 現在、「ムルジの家」の正面には、ブロツキーに関する記念プレートがあり、「一部屋半」のほうは、展示会や講演があるときに訪れることができる。展示会や講演は、ときどき開かれる。

2. 191番学校の元校舎

モホヴァーヤ通り26番地

 ブロツキーは、8年間の学校生活の中で、5つも学校を取りかえた。成績はパッとせず、英語を含むいくつかの科目で、及第点を取れなった。ついに15歳のときに、ブロツキーは退校することにした。

 オリガ・ブロドヴィチは、彼の青春時代のガールフレンドで、最後の第191番学校で、ブロツキーと知り合ったのだが、あるインタビューの中で、彼の学校生活のこんなエピソードを語っている。

 ある時のこと、授業中に誰かがブロツキーにメモを渡した。それには、「リテイヌイ大通りの本屋に、ジェイムズ・オールドリッジの新しい小説が入荷した」と書かれてあった。ブロツキーは、授業の最中だというのに、いきなり立ち上がって、本を買いに出かけてしまった。教師はショックを受け、ブロツキーが買い物を抱えて帰って来ると、学校に両親を連れて来なさいと命じた――。

3. 工場「アルセナル」 

コムソモール通り1-3番地

 学校をやめたブロツキーは、旋盤工として工場「アルセナル」に就職する。この決定は、家計を助けたいという若者の気持ちとも関係していた。ここで彼が働いたのは1年間にすぎないが、サンクトペテルブルク(当時はレニングラード)の工場の風景は、詩人の創作にずっとついて回った。

4. ゴーリキー記念文化会館 

ストライキ広場4番地

 1960年に、ブロツキーは初めて、文化会館で開催された「詩人のトーナメント」に登場し、大勢の聴衆の前で自作の詩を朗読する。それは、このユダヤ系詩人の、反ユダヤ人感情に対する一種の抗議行動となった。ブロツキーは、「ユダヤ人墓地」という詩を朗読したのだが、その大胆な詩行はスキャンダルを引き起こした。

 

自分のために歌った。

自分のために金を貯めた。

他人のために死んだ。

だが、まずは税金を払い、

執達吏に敬意を払った後でだ。

どうにもならぬ物質主義のこの世界で

タルムードを解釈し、

理想主義者であり続ける。

 

 その場に居合わせた共産党の職員がこの詩を評価したはずはなかった。この独学の詩人の反抗は、場違いで怪しからぬものと、彼らには思われた。

5. 恋人M. B.の家

グリンカ通り15番地

 ブロツキーの恋人、つまり詩人が多くの詩を捧げた、かのM. B.は、今もグリンカ通りのベヌア邸に住んでいる。

 画家マリーナ・バスマノワは、彼とともに米国に亡命はしなかったが、別離の状態にもかかわらず、文通を続けた。しかし、ブロツキーの初恋の人は、あまり人前に出る人ではないし、彼女と詩人の間に生まれたアンドレイ・バスマノフは、有名な父と比較されることを好まない。ブロツキーがソ連を去ったとき、息子は5歳だった。

6. ジェルジンスキー地区裁判所 

蜂起広場38番地

 まさしくこの裁判所で、1964年にブロツキー「寄生の罪」の審理が行われた。作家でジャーナリストのフリーダ・ヴィグドロワが2回の審理の速記録を公表したことから、非常な反響を呼んだ。

 ブロツキーは、サミズダート(地下出版)のかどでも告発されたのだが、彼は審問に辛辣に答え、それをペテルブルクのインテリたちは拡散したのである。

 

裁判官:あなたの専門、職業は?

詩人:詩人で翻訳者。

裁判官:あなたが詩人であることを誰が認めたのか?

詩人:別に誰も。(平然と)。誰が私を人類の一員と認めたか?

裁判官:あなたはそれを学んだのか?

詩人:それとは?

裁判官:詩作を。詩人を養成する大学を卒業しようともしなかった…。詩作を教える大学を…。

詩人:私はそれが教育などで得られるとは考えなかった。

 

7. 2精神病院 

モイカ河岸126番地

 同年、裁判所はブロツキーを強制的な精神鑑定のため、精神病院に送った。彼は病院で3週間過ごしたが、後に「あれは私の人生で最悪の時だった」と述べた。

 詩人の記したところによると、彼は真夜中に叩き起こされて、冷水浴をさせられたり、湿ったシートにくるまれて、放熱器の隣に立たされたりしたという。その結果、鑑定でこの「寄生虫」が健常者であることが認められた。

8. 元海軍博物館 

ビルジェヴァヤ(取引所)広場4番地

 ブロツキーの父、アレクサンドル・イワノヴィチは従軍カメラマンで、戦後は海軍博物館の写真部で勤務した。当時、博物館は、旧取引所の建物にあった。ワシリエフスキー島と市中心部の間の砂州に位置する(現在、この建物はエルミタージュ美術館に所属しており、海軍博物館は、「クリューコヴイ兵舎」に移転した)。

 幼いブロツキーはしばしば父のところへ遊びに行った。父が忙しいときは、博物館とその周辺をぶらぶらするのが好きだった。

 1962、詩人として歩み出した頃、彼はこの場所を詩に詠んでいる。この詩人の作品では最も平明で分かりやすいものの一つだ。

 

国も墓地も選びたいとは思わない。

ワシリエフスキー島に来て死にたい。

 

 この詩をブロツキーが書いたのは、亡命の10年前のことだった。

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