宮殿や貴族の大邸宅はソ連時代にどんな運命をたどったか?

Arkady Shajhet/MAMM/russiainphoto.ru
 ソビエト政府は、宮殿や貴族の大邸宅を含むすべての私有財産を国有化し、時にはそれらを珍奇な目的に使った。

 帝政ロシアの末期、さまざまなデータを総合すると、約4万の邸宅と数十の宮殿があった。しかし、1917年のロシア革命の後、多数の所有者が逃亡し、近隣の住民の荒らすがままにまかされた。今日まで残っている邸宅はわずか10分の1であり、しかもその多くは依然として破壊されたままだったり、打ち捨てられらままだったり。宮殿の運命は、邸宅よりはましだが、やはりソ連時代にいろんな試練にさらされたものが多い。

博物館

 サンクトペテルブルクの宮殿や皇帝の離宮については、ソビエト政権はその多くを“大目に見た”。早くも1918年には、ツァールスコエ・セローのエカテリーナ宮殿、豪壮華麗な噴水群で名高いペテルゴフ、ガッチナ宮殿が博物館となった。

左:プーシキン市がソ連軍によって開放された後。アレクサンドル宮殿。 大祖国戦争(1941-1945)。右;第二次世界対戦前の琥珀の間。

 これらの宮殿、離宮を運命の波が翻弄したのは後のことだ。これらはいずれもサンクトペテルブルクの市境または郊外に位置しており、第二次世界大戦中にドイツ軍によって占領された。ドイツ軍は退却するに際し、多くの建物を破壊し、一部は爆破し、公園の木を引き抜いたり、焼いたりした(ツァールスコエ・セローのエカテリーナ宮殿からは、有名な「琥珀の間」をまるごと運び去った)。ソ連は、自らの費用で入念にすべての建物を修復した。ガッチナ宮殿では、いまだに修復作業が続いている。

右:ガッチナの大宮殿。左:1944 年。ドイツ軍によって崩壊されたガッチナ宮殿の大理石の食堂。

 しかし、冬宮殿(エルミタージュ美術館)の運命は甘受できるものだったと言っていい。革命の一連の出来事の後で修復され、1920年に美術館としてオープンした。

 モスクワ近郊の多くの邸宅、例えばオスタフィエヴォ、アブラムツェヴォ、クスコヴォなども、幸運にも博物館になった。しかしクスコヴォは、第二次世界大戦中に、一時的に狙撃学校生徒のための兵舎になった。

左から右:アブラムツェヴォ、オスタフィエヴォ、クスコヴォ。

 風光明媚なアルハンゲリスコエも博物館になったが、敷地は狭められた。敷地内に、軍の療養所の巨大な建物が建てられたからだ。

アルハンゲリスコエ邸博物館

サナトリウム

 これは、貴族邸とその敷地の利用の仕方としてはおそらく最も一般的なものだった。モスクワおよびその近郊のウースコエ、ヴァルーエヴォ、ヴォーロノヴォは、いまだにサナトリウムとして機能している。そして、それらのいくつかは、様々な政府機関へ休暇用の宿泊施設として与えられた。

ヴァルーエヴォ邸

 スターリン時代には(またその後もしばらく)、サナトリウムとピオネール(共産党の少年団)のキャンプは、古典的な建築様式で建設された。入り口の円柱と柱廊玄関、そしていわゆる「縦列」(一連の部屋とその扉を一直線上に配置する様式)…。

 その鮮やかな例が、黒海沿岸の保養地、ソチ市のサナトリウム「メタルルグ(冶金専門家)」だろう。これが建設されたのは1956年だが、某伯爵の夏の邸宅といったたたずまいだ。

リヴァディア宮殿

 クリミアの豪壮なリヴァディア宮殿は、皇帝一家の別荘だ。ソ連時代の1945年にはここでヤルタ会談が行われ、有名になった。会談にはスターリン、ルーズベルト、チャーチルが出席し、大戦後の国際体制について話し合った。

クリミア。アルプカのヴォロンツォーフ宮殿

 同じくクリミアのヴォロンツォーフ宮殿は、革命後に博物館になった。しかしその後、黒海に面する、敷地の極上の部分が、国の別荘用に割かれた。ちなみに、ヤルタ会談の間、ウィンストン・チャーチルはここに泊まった。

マサンドラ宮殿

 クリミアのワイン産地にあるマサンドラ宮殿は、ソ連時代は、第二次世界大戦までは結核療養所になっていた。そしてその後しばらく、マガラチ・ブドウ栽培・ワイン生産研究所がここに置かれていた。しかし結局、宮殿はスターリンとその後の指導者たちの別荘の一つとなった。

国の施設と教育機関

レフォルト宮殿

 ピョートル大帝(1世)が建てたレフォルト宮殿は、19世紀にはもう兵舎に改装されていた。ソ連時代には、国立軍事史資料館となり、今日にいたっている。

トヴェリでの皇帝の宿泊用宮殿。

 エカテリーナ2世は、サンクトペテルブルクからモスクワまでの間にいくつかの小宮殿を建設するよう命じた。それらのうちのどれでも休息できるようにするためだった。トヴェリとヴェリーキー・ノヴゴロドのこうした宿泊用宮殿は、革命後は、代議員の委員会の宿泊施設となる。さらに後者は後に、赤軍の文化会館になった。

トルジョークの宿泊用宮殿

 トヴェリ近郊のトルジョークにもエカテリーナ2世の宿泊用宮殿があったが、19世紀にこの街が買い取った。そして、時代ごとに、女子ギムナジウム、7年制学校、若年労働者のための夜学校など様々な施設となった。

ストレリナにあるピョートル大帝の宿泊用宮殿

 1980年代後半、サンクトペテルブルク近郊のストレリナにあるピョートル大帝の宿泊用宮殿は、ペテルゴフ博物館に含まれることになった。この宮殿も、ドイツ軍により被害を被り、長い間空き家となっていたが、後に保育園になった。

 モスクワ州ヴャジョームイの素晴らしいゴリーツィン公爵邸には、大詩人アレクサンドル・プーシキンが幼いときにしばしば訪れている。言い伝えによると、祖国戦争(ナポレオンのロシア遠征)の当時、わずか数日の間隔を置いて、初めはロシア軍総司令官クトゥーゾフが、それからナポレオンがここに泊まっている。ソ連時代になると、浮浪児収容施設、落下傘降下兵、戦車兵の学校などいろんな施設になった(ここは、戦車・航空機の守備隊のあるクビンカに近かったため)。しかし、ペレストロイカ期にはやはり博物館になった。

ホテル

ペトロフスキー宮殿

 エカテリーナ2世が建てさせた、宿泊用のペトロフスキー宮殿は、当時は、モスクワのすぐ手前に位置していた(今はモスクワの地下鉄ディナモ駅の近くにある)。しかし女帝はここに2回しか泊まっていない。革命後は、病院、警察、様々な人民委員部(省)が入り、1923年には、ジュコフスキー空軍アカデミーがここに設置された。第二次世界大戦中は、この「赤色空軍宮殿」には空軍司令部が置かれた。

 現在、宮殿は、モスクワ市に属しており、荘重なレセプションがそこで開催される。1階には博物館があり、別館にはブティックホテル「Petroff Palace」がある。一晩8,100ルーブル(約1万4000円)で、ロシアの女帝とソ連の軍施設を記憶している部屋に泊まることができる。

パーヴェル1世の要塞(ビップ要塞)

 サンクトペテルブルクに属するパヴロフスクには、風変わりな「パーヴェル1世の要塞」がある。これは1790年代に、エカテリーナ2世の息子、皇太子パーヴェルが慰みに建てたもの。

 革命後の内戦期には、白軍のニコライ・ユデーニチ将軍の司令部が置かれたことがあったが、 その後はさまざまな目的に使われた。幼稚園、倉庫、軍事委員部、さらには銀行にいたるまで。しかし第二次世界大戦中に全焼し、石造りの城壁だけが残った。復元されたのはようやく2000年代のことだ。

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