琥珀の間はどこに消えた

画像:ヴァルヴァラ・グランコワ
 ロシアとドイツの傑作の象徴「琥珀の間」は、ロマノフ朝の誇りそして喜びであった。第二次世界大戦中、琥珀の間は消え、以来見つかっていない。21世紀に入り、ロシアの職人や科学者が琥珀の間を見事に復元したものの、元の琥珀の間がどこに消えたのかについては、いまだに熱く議論されている。

 ピョートル大帝(在位1682~1725年)は、好奇心旺盛なことで有名だった。「クンストカメラ」の珍品のコレクションは、鉱物から奇形の死産児までにおよび、いまだにサンクトペテルブルクで展示されている。当時、ヨーロッパの君主の誰もが、ピョートル大帝を喜ばせるには変わった贈り物をするのが一番だとわかっていた。

 プロセインのフリードリヒ・ヴィルヘルム1世は1716年、ピョートル大帝の愛顧を得ようと、プロセインの一流バロック建築家および彫刻家にデザインさせた、琥珀と金で装飾された部屋をプレゼントした。これが有名な琥珀の間である。その驚きの美しさで、「世界8番目の不思議」と呼ばれた。

プロセインからロシアへ

 ピョートル大帝の子孫は、琥珀の部屋を改良、拡張し、隆盛の至宝へと変えた。18世紀末までには、金箔および半貴石の装飾の施された、6トンの琥珀の輝く、100平方メートルの豪華な広間になっていた。歴史学者および宝石職人はいまだに、琥珀の間の推定価値について、1億4200万ドル~5億ドル(現行レートで約157億6200万円~555億円)の範囲で議論している。

 エカテリーナ2世(在位1762~1796年)は琥珀の間を、サンクトペテルブルク近郊のツァールスコエ・セローにある夏の離宮「エカテリーナ宮殿」に設置した。その後、わずかな修復が都度行われながら、1941年まで守られてきた。大規模な修復は、ちょうどこの年に予定されていたが、実施されることはなかった。

「琥珀の間」、「エカテリーナ宮殿」、サンクトペテルブルク近郊のツァールスコエ・セロー、プーシキン町=Getty Images「琥珀の間」、「エカテリーナ宮殿」、サンクトペテルブルク近郊のツァールスコエ・セロー、プーシキン町=Getty Images

戦争で消滅 

 大祖国戦争(独ソ戦)は1941年6月に勃発した。最初の数ヶ月間は、ソ連にとって大変な試練であった。9月、ドイツ国防軍はプーシキン町を占拠。多くの展示品が保護のためにシベリアに運ばれたが、琥珀の間は壊れやすく、またとても重量があったため、運ばれなかった。

 ナチスドイツはアドルフ・ヒトラーの統治時代、琥珀の間を含む前世紀の芸術品の多くがドイツ人から盗まれたものとの考えを、公にしていた。そのため、琥珀の間を分解して、ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)に送った。

 ケーニヒスベルク城のコレクションを1926~1945年に管理していたドイツの美術史家アルフレッド・ローデ氏によれば、ドイツは琥珀の間を大切にしていたという。1944年にケーニヒスベルクの旧市街が空爆された際には、司令部が解体した部屋をケーニヒスベルク城の地下に運び、守ったという。ソ連軍は1945年4月、ケーニヒスベルクを占拠したが、琥珀の間の痕跡を見つけることはできなかった。こうして、消滅したのである。

アレクサンドロフスキー宮殿、ソ連軍によるプーシキン市の解放後。1941年9月、ドイツ国防軍はプーシキン町を占拠。多くの展示品が保護のためにシベリアに運ばれたが、琥珀の間は壊れやすく、またとても重量があったため、運ばれなかった。=ボリス・クドヤロフ/ロシア通信アレクサンドロフスキー宮殿、ソ連軍によるプーシキン市の解放後。1941年9月、ドイツ国防軍はプーシキン町を占拠。多くの展示品が保護のためにシベリアに運ばれたが、琥珀の間は壊れやすく、またとても重量があったため、運ばれなかった。=ボリス・クドヤロフ/ロシア通信

さまざまな説

 琥珀の間がどこへ消えたのかについては、多くの説がある。ローデ氏が嘘をついており、ケーニヒスベルクでの戦いの際に完全に焼失したという説もあれば、ケーニヒスベルク城(1969年にソ連政権が解体)の地下のどこかにあり、そのままなくなったという説もある。専門家は、後者の場合、焼失したも同然だと考える。琥珀には一定の温度条件が必要なため、地下で崩壊する可能性が高いからだ。

 他の説は、琥珀の間を探す人々にとって、ワクワクするような内容である。ナチスドイツが敗北を不可避だと考え、さらに分解してドイツに運んだ、というもの。ロシアの歴史学者アンドレイ・プルジェズドムスキー氏は、カリーニングラード近郊の秘密の保管庫に隠されていると考えている。他の研究者は、1945年以降、ナチスドイツの複数の指導者が避難した南アフリカに、琥珀の間がこっそり運ばれたと考えている。

 こんなおもしろい説もある。ナチスドイツは本物を獲得したわけではなかったと。プーシキン町の専門家フョードル・モロゾフ氏の説によれば、ソ連が戦前、琥珀の装飾の複製品を制作し、本物とうまく入れ替えて、元の琥珀の間を搬出。そして、ソ連と仲の良かったアメリカの実業家アーマンド・ハマー氏に、軍事物資貸与プログラムを支援したことへの褒美として、送ったという。

見事な複製品

 琥珀の間の一部は、第二次世界大戦で損傷を逃れている。ドイツは2000年、装飾の2つすなわちフィレンツェ風モザイクと琥珀箪笥をロシアに返還した。それでも大部分は見つかりそうになかったため、国はこれを復元している。ソ連の研究者と彫刻家の復元作業にはドイツの職人も加わり、1981年に始まった。復元には20年以上、金額にして1135万ドル(約12億5985万円)かかった。プーシキン町のエカチェリーナ宮殿で2003年、新しい琥珀の間がオープンした。

 琥珀の間探しに30年以上費やした、ロシア生まれのリヒテンシュタインの実業家バロン・エドゥアルド・ヴォン・ファルツ・ファイン氏は2004年、元の琥珀の間は完全に紛失しているようだと言いながらも、新しい間のことを褒めた。「5歳の時に元の琥珀の間を見て、また新しい間を見ている。新しい間の方がむしろ良いぐらい」と、「論拠と真実」紙に話した。琥珀の間探しを続けることもできるが、プーシキン町に行って、見事な複製品を見学する方が簡単だ。

*この記事は、ロシアに関連するミステリーや超常現象を探る、「ロシアのXファイル」シリーズの一つ。