モスクワ・クレムリンのツァーリ・プシカは、世界最大の口径の射石砲としてギネスブックにのっている。800キロの砲丸を撃つよう設計されていた。大砲自体の重量は40トンほどで、輸送には200頭の馬が必要である。
口径は890ミリメートル。イギリスのマレット臼砲やアメリカのリトル・デーヴィッドなど、口径914ミリメートルの大型砲は存在する。だが、これらは迫撃砲であるため、クレムリンのツァーリ・プシカが比類なき大砲であることを意味する。
また、迫撃砲は19~20世紀、比較的新しい技術を使って製造されたのに対し、ツァーリ・プシカは1586年、青銅から鋳造された。鋳造者はモスクワのアンドレイ・チョーホフ。
つくられたのはイワン雷帝の息子のツァーリ・フョードル1世の時代であった。銃身にはツァーリが描かれている。頭に王冠をかぶり、手につえを持ち、馬に乗っている。その上には、「神の恩寵により、全大ロシアのツァーリにして大公フョードル・イワノヴィチ統治者にして絶対元首」と書いてある。また、右には大砲をつくった人について記され、左にはツァーリの要求でつくられたことが記されている。
この大砲の柄ゆえに、このような名称になったとも言われている。だが、柄よりも、当時あり得なかった大きさゆえに、この名称になったとの考え方の方が一般的である。
実際に使う兵器としてではなく、国家モスクワの力を対外的に印象づけるよう、大砲をつくった、という話がある。大砲はもともと使用を意図したものではなく、発砲されたことはないと。だが1980年、軍事アカデミーの専門家は大砲の修復の過程で調査を行った際、火薬残留物を発見し、少なくとも1回は発砲されていたという結論に達した。
ツァーリ・プシカは赤の広場の特別な構造に組み込まれていた。クレムリンが東から侵攻されないよう、防衛を目的として設置されたと考えられている。ただ、実際の戦いで使われることがなかっただけである。18世紀、大砲はクレムリンの武器庫に移された。
1812年ロシア戦役(ナポレオンによるロシア帝国への進攻)の際、モスクワでは大火が起こり、大砲の木製砲車は焼失した。その後、現在の鋳鉄製の砲車がつくられた。ツァーリ・プシカの前に置いてある砲弾がつくられたのもこの時である。これらの砲弾は装飾用として置いてあるにすぎない。大きすぎて、ツァーリ・プシカでは使えない。
ツァーリ・プシカ以外にも、ツァーリ・コロコルという鐘もある。ロシア・ビヨンドでは、この鐘についても特集する。
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