イヴァン6世生まれる

写真提供:wikipedia.org

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1740年の今日、8月23日(ユリウス暦8月12日)に、イワン6世が生まれた。

生後2ヶ月で即位 

 イワンは、生後二ヶ月で、死の床にあった女帝アンナから後継指名を受け、即位した。

 女帝アンナは、ピョートル大帝の異母兄イワン5世の娘であり、イワンは、彼女の姉の孫に当たる。

 女帝アンナは、父イワン5世の系統の人間が帝位につくことを強く望み、ピョートル大帝の子孫が即位することを恐れて、遺言でイワンを後継指名したのだが・・・。

 

1歳で廃位、幽閉 

 ところが、翌1741年に、ピョートル大帝の娘エリザヴェータが、近衛軍に支持されてクーデターを起こし、イワン6世は廃位された。

 エリザヴェータは幼帝の復位を恐れ、彼を家族から引き離して幽閉し、1756年からは、悪名高いシュリッセルベルクの要塞監獄に移す。

 シュリッセルベルクは、現レニングラード州のオネガ湖からネヴァ川が流れ出す地点にある要衝で、その要塞監獄には、ピョートル大帝の最初の妻エヴドキヤからはじまって、デカブリスト、無政府主義者バクーニン、レーニンの兄アレクサンドル・ウルヤーノフにいたるまで、数々の政治犯が収監され、ときに処刑されてきた。

 

生涯を監獄で 

 この要塞では、公称「周知の囚人」、すなわちイワン6世は、外界から完全に遮断されてしまい、召使、獄吏もふくめて、一人として生きた人間を目にすることはなかった。

 しかし、当時の記録によれば、イワン6世は、自分がかつて皇帝だったことを知っており、読み書きもできた。そして、修道院に入ることを夢想していたが、1759年ごろから、言動に異常を来たしたという。1762年に即位したエカテリーナ2世も、そのことを証言しているが、獄吏たちは仮病だとみていた。

 

救出の企てがあれば殺害せよ 

 イワン6世を救出しようという試みは度々あった。1764年には、ウクライナ出身の士官で、要塞の警護を担当していたワシーリー・ミロヴィチが、衛兵の一部を仲間に引き入れて、イワン6世の獄吏に釈放を迫った。

 ところが、獄吏たちはすでに、万一救出の企てがあった場合は、イワン6世を殺すよう指令を受けていた。獄吏たちはそれに従い、廃帝を刺し殺してから、ミロヴィチに下った。ミロヴィチは、同64年に逮捕、処刑されている。

 

女帝の陰謀説も 

 ミロヴィチの先祖は富裕だったが、ウクライナ・コサックの首領マゼッパに与し、スウェーデン国王カール12世とともに、ピョートル大帝と戦って破れ、零落した。

 ミロヴィチは、エカテリーナ2世に先祖の所領の返還を何度も願い出たのに、却下されて恨み、反逆におよんだという説がある一方で、女帝が間接的にそそのかして、イワン6世を殺させたという陰謀説もあり、真相は不明だ。