皇帝パーヴェル1世
パーヴェル1世は即位後、イギリスと断交し、ナポレオンに接近しようとしたが、もともとロシアは、穀物、木材などの一次産品をイギリスに輸出するのが通商の根幹だ。ロシア貴族も英国も困り果て、ついにツァーリの強制排除に動いた。ニキータ・ペトローヴィチ・パーニン(1770-1837)らが、1799年から暗殺計画をねっていた。
国際プロジェクトとしての暗殺
イギリスも艦隊をバルト海に派遣し、イギリス大使チャールズ・ウイットワース(1752 – 1825)みずからも陰謀にくわわる。
ちなみにウイットワース大使は、女帝の最後の愛人、プラトーン・ズーボフの実の姉、オリガの愛人であり、オリガも、プラトーン、ニコライの兄弟も、陰謀に参加した。
オリガの近親者、ピョートル・ヴァシーリエヴィチ・ロプヒーン公爵によれば、英大使は、オリガを通じて資金援助するとともに、ズーボフ兄弟らメンバーと接触したという。兄弟は主要な実行犯となり、ニコライは直接パーヴェルに手を下した。
「船員は30人で船長はたったひとり」
セミョーン・ヴォロンツォーフ(1744-1832)は、長年イギリス大使をつとめた人物で、パーヴェル時代もロンドンにいたのだが、彼も陰謀に関与していたらしい。歴史家ナタン・エイデルマンによると、その根拠は―
第一に、陰謀が練られる99年末以前にもう、セミョーンが、コチュベイとウイットワース英国大使という、陰謀の中心人物ときわめて親しい関係にあったことが、セミョーンの書簡からたしかめられること。
第二に、1801年2月5日付けのニコライ・ノヴォシリツェフあて書簡で(彼もまた陰謀家のひとりだ)、あからさまにパーヴェル排除の必要性を示していることだ。当局に手紙を開封されるおそれがあるので、アレゴリー風の表現がなされているが。
手紙の内容を要約すると、「われわれ国民が乗っている船は、船長が気が狂って船員をぶんなぐっているので、このままだ嵐を乗り切れず、沈んでしまう。船員が船を救わなくてはならない。船員は30人で船長はたったひとりなのに、彼に殺されるの恐れるなんてこっけいだ」。
エイデルマンは、「30人対1人」というのは、まもなく起こる、パーヴェルの寝室での暗殺劇のシナリオを反映している可能性があるとも指摘している。
暗殺後
暗殺事件後、実権を握ったのは、セミョーン・ヴォロンツォーフの兄アレクサンドル・ヴォロンツォーフ(1741-1805)と、新帝アレクサンドル1世の「若き友人たち」の構成する秘密委員会(アダム・チャルトルィスキ、ヴィクトル・コチュベイ、ニコライ・ノヴォシリツェフ、パーヴェル・ストローガノフの4人からなる)だ。
ヴォロンツォーフは、1802年に最高文官(一等文官)に就任して外交も担ったほか、秘密委員会の「アタマン」(詩人デルジャーヴィン)でもあったから、文字どおり政権の支柱となる。
ロシア・ビヨンドのニュースレター
の配信を申し込む
今週のベストストーリーを直接受信します。