なぜソ連はガムを禁止したのか?

ソ連特集
ソフィア・ポリャコワ
 ガムはソ連のティーンエイジャーたちにとっての憧れの品であった。しかし、政府はアメリカの製品に断固、反対した。

 ガムはソ連が正しくないと判断した多くのものと同様の運命を辿った。ガムは公式的に禁止された訳ではないが、良くないものとして非難された。

 そして、ガムはソ連の子どもたちやティーンエイジャーにとって、まさに「禁断の果実」となったのである。そこで子どもたちは何とかガムを手に入れようと必死になり、そのためならほとんどのことを犠牲にすることができた。中には、治安機関に目をつけられる恐れがあると知りつつ、外国人にガムをねだる子どもたちもいた。

敵国の製品

 1970年代まで、ソ連ではガムは製造されていなかった。外国に行ったことがある限られた人々―外交官やその家族、支配階級、通訳など―はガムがどういうものかを知っていて、食べたこともあったが、一般のソ連市民はそれが何であるかも知らなかった。ガムを噛むという行為は、ソ連の思想では非難されるべきことであった。それは、資本主義体制の無意味さと敵国アメリカの文化を感じさせるものだったのである。

 スターリンの死後、鉄のカーテンが少し開くようになると、ソ連社会にも西側文化が少しずつ入ってくるようになる。1955年には、ソ連の一般市民も外国に旅行することができるようになった。とはいえ、この可能性を持つことができたのも限られた人たちで、その可能性を手に入れるにはいくつもの条件をクリアしなければならなかった。非の打ちどころのない評価、推薦状、個人情報に関する5ページものアンケートへの記入、そして健康診断書の提出などである。

 芸術史研究家のミハイル・ゲルマン氏は、後に次のように語っている。「健康診断書はコネを使って何とか用意しました。当時は健康な人に対しても、この診断書はなかなか出してもらえなかったのです。兵役には十分適していても、外国旅行には適さないと判断されることもありました」。

 しかも、たとえ外国に行くことができても、ソ連市民が国から持ち出し、両替することができる金額はかなり限られていた。外国に行った人々は、その限られた金額で、洋服や電化製品など、できるだけ価値のあるものを買おうとした。当然、ガムなどのちょっとしたものを買うお金はほとんど残らず、ガムをたくさん持ち帰ることはできなかったのである。

刃の入ったガムにやられる

 ガムが初めてソ連に大量に入ってきたのがいつなのか、正確には分からない。おそらく、最初に人気に火がついたのは、1957年にモスクワで開かれた世界青年学生祭典がきっかけだったと思われる。数多くの外国人がモスクワを訪れ、ソ連の人々へのお土産にガムを渡し、お返しにソ連のバッジなどを受け取った。この友人同士の物々交換が商業的なものになったのが、「ファルツォフカ」と呼ばれる、外国人とのものの売買、そして物々交換あった。まさにこの世界青年学生祭典の後、ソ連には西側の製品が大量に入り込んでくることになったのである。ファルツォフシクは闇取引や外貨取引で拘束されることもあったが、それでもソ連の若者たちを止めることはできなかった。

 次に「ブーム」が到来したのは1980年に開催されたオリンピックのときである。このとき、資本主義国がボイコットを決め、ソ連政府が破壊工作を行う可能性があるとされたことから、オリンピック開催直前の雰囲気はかなり緊張したものであった。モスクワへの自由な入国は禁止され、夏休みだった子どもたちは街から出るよう勧告された。しかし、政府は街に残った人々に対して、警戒を呼びかけた。

 噂の出どころが何だったのかを知ることはもはや難しいが、競技が行われたソ連の都市では、どこかの学校や工場に警察官がやってきて、外国人と接触するのは危険だ、外国人がくれるガムを食べれば中毒症状が出る、あるいはガムの中には刃が仕込まれているなどと警告したと言われている。また外国人からプレゼントを受け取った児童が病院に運ばれたなどという話もあった。さらに、何らかのプレゼントを受け取ることは、「西側に対する崇拝」を意味するとされ、そのような贈り物があれば、近くに外国の諜報員がいるとされた。

 しかし、若者の中には、どんな脅かしにもどんな禁止にも動じない者がいた。そしてガムは多くの人にとって、魅力的で、手の届かない色彩豊かな西側の生活のシンボルとなった。その上、その貴重な品を持っていれば、同級生の間でステータスが一気に上がった。1970年代末に新聞「ピオネルスカヤ・プラウダ」のインタビューに答えた小学生は、いろいろな理由があったが、ガムは、友達にねだられるために必要だったと語っている。

国産「バブルガム」

 ソ連が独自のガムを製造するようになったのは1975年にソコーリニキで起こった悲劇的な事件の後である。そのとき、ソコーリニキのスタジアムでは、ソ連とカナダのジュニアチームのホッケーの試合があった。試合のスポンサーはカナダのガムメーカー「Wrigley」で、観戦に訪れた人々はそのメーカーがガムを配るのではないかと期待していた。

 試合終了後、ソ連の観客たちは、カナダチームのバスが停まっていたスタジアムの出口に向かって一斉に走り出した。しかしその出口のドアは閉まっていて、さらにスタジアムの電気が突然消えた。これは、外国のジャーナリストたちが、ガムに群がるソ連の若者たちの写真を撮らないよう、電気が故意に消されたとも言われている。ドアが閉まっていたことと電気が消えたことで、人々は押し合いとなり、その結果、21人が圧死した。犠牲者のうち13人はまだ16歳にもなっていなかった。

 この事故の後、1977年、エレヴァン(アルメニア共和国)で、ソ連初のガムの製造が始まり、その後、ソ連最大の菓子メーカー「ロト・フロント」でもガムの販売が始まった。そうしてソ連の商店では、ストロベリー、オレンジ、ミント、コーヒーといった味のガムが5枚入りで売られるようになった。

 ソ連邦が解体するまで、ガムはファルツォフカが扱う品であり続けたが、大量に製造されるようになると、かつてあれほど欲しがっていた西側の生活品をめぐるブームは過去のものとなった。1990年代になると、輸入品がロシア市場に溢れ出すと、輸入品のガムはあっという間にソ連製のガムにとってかわり、子どもたちは「Turbo」ガムの包み紙の中に入っている小さな紙を交換したり、集めたりするようになった。

 1990年代にその紙を蒐集していたアルトゥールさんはこう語っている。「大事なのはガムそのものではありませんでした。ガムは5分もすれば味がなくなるものでした。皆が欲しがったのはガムの中にあった紙です。自動車やバイクの絵が描いてあり、それで男の子たちは外国の自動車の名前を覚えたものです。通りで見ることができるのは、『ヴォルガ』や『ジグリー』だけでしたが、その紙には、ランボルギーニやブガッティ、オペル、トヨタなどがあったのです」。この紙を使った遊びまで作られた。紙を2枚重ねて置き、上から手のひらで叩いて、うまく裏返れば(紙はとても薄くて軽かった)、2枚とももらえるというものだった。この紙の種類はかなり多く、これを全種類集めようという人もいたため、何かのゲームで、この紙が賭けられることもあったのだそうだ。

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