ソ連で禁止されていたこと10選

Kira Lisitskaya (Photo: Vsevolod Tarasevich/Sputnik; CSA Images/Getty Images)
 ソ連国家は数えきれないほどの禁止令を出して、国民の生活を完全に管理しようとしていた。現在は当たり前の権利、ごく普通のことのように思えることが、共産主義社会では、考えられないほどの贅沢だったのである。

1. 外国に渡航すること

 ソ連で、仕事のために国外に出ることが許されていたのは、ごく限られた人(外交官、船乗り、パイロット)だけであった。それ以外の国民にとっては、「鉄のカーテン」の向こうに行くことはまったく不可能、あるいはかなり困難なクエストに挑むようなものであった。休暇はソ連の海に出かけたり、国内ツアーで旅行をし、外国の生活については珍しい欧米の映画で目にしたり、うわさ話で耳にするだけであった。

 それでも、外国に行く何か重要な理由があった場合には、数えきれないほどの証明書を提出し、委員会の人々に気に入られ、共産党の地区委員会での面接をパスしなければならなかった。このような選別システムが導入されていたことから、書類は、出発の3〜6カ月前に提出しなければならず、かなり説得力のある理由があっても、必ず許可してもらえるという保証はなかった。とりわけ、旅行に向けたツーリスト養成のための規定の一つには、「かなりの人生経験があり、政治的に成熟していて、個人的な行動において申し分なく、国外でソ連国民としての名誉と威厳を守ることができる人」というものがあった。

2. 大学卒業後に自分で職場を選ぶこと

 ソ連では、高等教育機関や専門学校を卒業した後、職がないなどということはあり得なかった。しかし一方で、それは卒業生に一定の義務が課されたということであった。専門性を活かした希望の職場で働くことができたのはコネがある人だけで、それ以外の人たちには職場を振り分けるシステムがあった。専門委員会が卒業後の3年間、どこで働くのかを決めたのである。その決定では、都会の企業で働くことになることもあれば、故郷から数千キロも離れた場所で働かなければならないこともあった。これを拒否することはできなかった。

3. 居住地を頻繁に変更すること

 ソ連に移動の自由はなかった。政府は国民の移動を厳しく管理していたのである。そのため、ソ連では、住民登録をし、その住所をパスポートに記入した。1960年以降、この登録をせずに3日以上どこかに滞在した場合、犯罪とみなされることになり、1年の禁錮刑または1カ月の給料に相当する罰金を課された。

 そんなわけで、生まれた家を出て、引っ越したいと思ったときには、きちんとした根拠を示し、国の許可を得なければならなかった。理由になり得たのは、仕事、学業、あるいは従軍であった。しかし、職を失えば、住民登録も取り消された。

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4. 職に就かない 

 働かない人間というのは、ソ連のイデオロギーに合致しなかった。誰もが労働し、ソ連国家を建設しなければならなかったのである。1961年以降、刑法には「社会的寄生者」という罪が作られた。4カ月間、職に就いていない人(乳児を育てている母親は別)がその対象となった。「社会的寄生者」は最大5年にわたり、遠隔地での矯正労働に就かされた。しかも、仕事がないとか収入がない人だけでなく、収入はあっても、その正式な証明を持たない人、労働手帳がない人もこの罰則の犠牲者となった。個人タクシー運転手や建設事業者、音楽家なども対象となった。

5. 政府を批判する 

 ソ連では、政府の行動を認めず、それを批判する人のことを「反ソヴィエト主義者」と呼んだ。もちろん、人前で堂々と批判できる人はほとんどいなかったが、 キッチンでの会話でさえも、もし誰かがこれを密告すれば、「反ソヴィエトプロパガンダ」の罪に問われた。反ソヴィエト主義の罪に問われた場合、最大7年の禁固刑が言い渡された。

6. 外貨を売り買いする 

 外貨の売買は国家だけが有する権利であった。外国の通貨を市民が持つことは禁じられ、1937年からは国家犯罪と同一視された。外国へ渡航したあとに外国の通貨が手元に残った場合には、すぐに特別な証明書と交換しなければならなかった。その証明書を使えば、「べリョースカ(白樺)」と呼ばれる店で買い物をすることができた。これは外国と関係のある職員(外交官、軍人、技術専門者)やその家族のために土産物や食料品が売られていた店で、アメリカ製のジーンズや日本のカセットデッキ、イタリアのブーツなど、ソ連では「不足していた」品々を買うことができた。

7. 空手やボディビルをする

 空手は、映画館で東洋の武術が登場する映画がたびたび上映されるようになった1960年代に人気を博した。しかし、ソ連版の空手は独自の特徴を持っていた。それは犯罪社会に属する人々の間で人気があったことで、警察官たちも、こうした技を持った人々にはどのように対抗すればよいのかわからなかった。

 また空手は政治的な意味においても危険なものになった。ポーランドで起こった暴動で、空手家たちが警察のバリケードを突破したのである。ソ連政府はそのような格闘家がソ連に登場することを恐れ、1981年、公式に空手を禁止した。 

 同じような運命を辿ったのがボディビル であるが、これはイデオロギー的な理由からであった(格好よく見せるために筋肉を鍛えるというのは、反ソヴィエト的だと考えられた)。そこでボディビルダーたちは地下に隠れ、警察から逃れた。1987年にこのボディビルは解禁された。

8. 不動産を購入する 

 労働者に住居を保障するというのは、ソ連政府の公理であった。部屋を手に入れる方法はいくつかあった。たとえば、社員のための住宅の建設をおこなっている企業に就職する、あるいは子どもを産んで、住環境を良くするためのプログラムに申し込み、順番を待つなどである。結果的に、事実上、部屋は全員に与えられたが、これは終身賃借を条件とした。

 部屋には誰か別の人を登録することもでき、別の部屋と(いくらかの金額を足して)交換することもできた。しかし、これを売却したり、購入したり、寄贈したり、相続することはできなかった。ほぼすべての住居は国家のものだったのである。

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9. 外国のラジオ放送を聴く 

 ソ連向けに行われていた外国のラジオ放送もあった。いくつかの放送は、ロシア語だけでなく、ソ連のその他の民族の言葉でも行われていた。しかし、国家にとって、「敵の声」はまったく必要なものではなく、ジャミングした。そのために1400ほどのステーションが作られ、外国放送の40〜60%は妨害された。 

 政治的緊張が緩和された時期には、妨害も弱められたり、一時的に中止されることすらあった。たとえば1959年、ニキータ・フルシチョフがアメリカを訪問したときには、「ヴォイス・オヴ・アメリカ」のジャミングも緩められた。 

10. 外国のガムを買う 

「もしチューイングガムを発明したとして、なぜ自分たちの家で楽しくガムを膨らませていないで、それを世界に広げるのか?」と、1947年、新聞「文化と生活」のジャーナリスト、イリヤ・エレンブルクは憤慨した。

 ガムは「腐敗した西側」のシンボルであるとして、ソ連の「制裁」の対象となったが、それにより、人々にとってはさらに魅力的なものになったのである。1975年に悲劇が起こった後、ソ連政府は転換を迫られた。ロシアを訪れたカナダのホッケーチームの選手たちが、モスクワのソコーリニキ公園で、子どもたちにガムを配ったところ、大勢が集まって大混雑となり、21人が圧死したのである。そして1976年にはソ連でガムが製造されるようになった。

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