エヴェンキ民族=
ミカイル・クフタリョフ撮影/ロシア通信サハ共和国の行政中心地ヤクーツク市からエヴェンキ民族ウルス(地区)までの飛行機は、週に2~3便出ているだけ。地元の住民は、飛行機に乗ってきた親戚を出迎えるため、車でそのまま滑走路に入る。ここでは誰もが顔見知りで、見知らぬ人が訪問すると、1時間後にはすべての村で知られるようになり、2時間後には客として招かれる。ここに暮らすエヴェンキ人はもてなし好きだ。
=ミカイル・クフタリョフ撮影/ロシア通信
エヴェンキ民族地区は、サハ共和国で最も面積の広い行政地区。共和国北西部の北極圏に位置する。
エヴェンキ民族地区には4つの村があり、合計4000人が暮らしている。この地区には公共交通機関がなく、他の離れた村やヤクーツクへは冬しか行くことができない。氷点下で凍ってできた道をオフロード車でひたすら走る。とはいえ、年間のほとんどが冬で、夏は6月と7月だけである。
オレネク村とハリヤラフ村の木造家屋に、約1500人のエヴェンキ人が暮らしている。地元の店では食料品が高く、外国産のリンゴやジャガイモは目玉が飛び出るほどの高さだ。エヴェンキ人の家庭の主要な食料はトナカイの肉と魚で、毎日さまざまな形で食されている。この地区には仕事がないため、トナカイ狩り、またはオオカミの駆除で収入を得ている。
インターネットも良好な通信もないが、オレネク村にはさまざまな利便性が備わったコンクリート造りの学校、愛国センター、ビリヤード場、またトナカイ飼育とツングース部族(エヴェンキ人は1931年までこう呼ばれていた)について紹介する民族学博物館がある。
=ミカイル・クフタリョフ撮影/ロシア通信
民族学博物館のプロコピー・サッヴィノフ館長は、ガイドツアーを行い、地元のシャーマンの衣装や装飾品を紹介している。シャーマンはエヴェンキ人の土地にはもう残っていない。
「ソ連政府が(ここに)来る前の1935年、エヴェンキ人は大きなコミュニティとして暮らし、家業でトナカイを飼育し、野生のトナカイの狩りをし、魚を釣っていた。年度開始は3月だった。コサックがここに来た17世紀には、すでにエヴェンキ語を失っていた。母国語で話すと、クロテンの毛皮のヤサク(税金)を、コサックに徴税されていた。徴税を逃れようと、エヴェンキ人は隣人であるヤクート人のふりをしていた。ヤクート人の中で生活するうち、徐々に同化していき、今ではほとんどの人がヤクート語で話している」とサッヴィノフ館長。
エヴェンキ人がトナカイ飼育民になるにはしばらく時間がかかった。だがトナカイのおかげで、遊牧することができるようになり、凍てつくサハの地に順応できたのだ。オレネク村には4000頭以上のトナカイがいる。
=イゴリ・ミハリョフ撮影/ロシア通信
我々は大きなカマズ(トラック)に乗って、でこぼこに凍った道で左右に揺れながら走行する。女性はヤクートの歌をうたっている。雪で止まると、カマズの脇にオラジヤ(パンケーキ)を投げた。川がさらなる走行を許してくれるようにと。儀式や習慣を大切にするエヴェンキ人は、オラジヤを太陽の象徴と考えている。凍った道を走ること5時間。ようやくトナカイ飼育民の野営地にたどり着く。
地元の年配者は、我々に浄化の儀式を行い、オラジヤの欠片を供物として火の中に投げる。この儀式を行ってようやく、客人と会話し、周囲を案内できるようになる。
=イゴリ・ミハリョフ撮影/ロシア通信
「ここの仕事は大変で、ほとんどお金はない。四六時中遊牧しているけど、もはや暮らしを変えることなんてできない」と、トナカイ飼育民のセルゲイさんは話しながらため息をつき、トナカイをなで、我々は一緒にテントに向かった。中ではトナカイ飼育民と家族が毛皮の上で寝ている。野営地にはソーラー充電器があり、ほぼどこの家庭もスマートフォンを使い、アイフォンもある。だが料理は昔のように、鋳鉄製のストーブで行っており、また民族衣装を縫い、それを着ている。この民族衣装がないと、ツンドラでは防寒できないためだ。
「トナカイ遊牧民のライフスタイルのおかげで、私たちのエヴェンキ語が守られた。小数のエヴェンキ人のグループが遠くタイガ(針葉樹密林)に行き、そこで旋律的な真のエヴェンキ語を守っていた」と、エヴェンキ語の先生スヴェトラーナ・ステパノワさんは話す。
=ユリア・コルチャギナ撮影
ステパノワさんはオレネク村の学校で長年教鞭をとっており、エヴェンキ語を復活させようとしている。生徒はステパノワ先生の授業が大好きだ。ゲーム形式で行われているため。
「私の両親はずっとタイガで遊牧していた。私は子供時代ずっと野営地で過ごしていた。若い頃は若いトナカイの袋角が大好きだったの。野営地から出発して、若い角をかじっていたわ。エヴェンキとは平和を愛する民族。トナカイを愛し、必要以上に殺さない。トナカイで無駄になるものはない。ほとんどが食料になり、蹄はおもちゃにする。私の両親は、ヤクーツクのアンモソフ北東民族言語・文化大学にエヴェンキ語学部を創設した。私は両親の跡を継いで、ずっとエヴェンキ語を教えている」とステパノワさん。ロシア・ビヨンドのニュースレター
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