子どもの時に経験した第二次大戦

画像提供:ソスニン氏の家族

画像提供:ソスニン氏の家族

作曲家のステパン・ソスニン氏は、大祖国戦争(独ソ戦)時、まだ幼い子どもだった。最初の空襲、避難、飢え、高射砲兵のママ、砲兵中隊のために電話でうたった歌...

 ステパン・ソスニン氏(78)は、モスクワ音楽院で合唱指揮を学んだ後、作曲家となり、カンタータ「レニングラード叙事詩」や、児童用オペラ「長靴をはいた猫」などで知られている。

 ソスニン氏の父親は戦前、自分の工房を持っていた。両親はボリショイ劇場の装飾家であった。1941年、父は前線に召集される。「同じ年、父消息不明との戦死公報が届いた。母がそれを教えてくれた。母は高射砲兵として上空を守るためにモスクワに残った」とソスニン氏は回想する。この時、ソスニン氏は4歳だった。避難中の飢え、二段式寝台のある防空壕での生活を、身をもって体験した。

 

お空でなにかが起こってる

 「何かが違うと感じていた。皆が怯えながら地下壕に座っていた。私はまだ幼かったから、それほど怖いとは思っていなかったが」とソスニン氏。 ソスニン氏が覚えているのは、サイレンが鳴りひびき、祖母に「急いで、急いで」とせかされ、一緒に防空壕に降りていたこと。これはいつも夜中に起きていた。「避難しながら空襲の音を聞いた。家の窓ガラスには、割れないようにと、紙が貼られていた。どこの家でもそうだった」。ソスニン氏の戦争についての記憶は断片的だ。当時は戦争というものを理解できていなかったが、それでも上空の何かに平穏が乱されていたことをはっきりと覚えている。それは低空飛行をしていたナチス・ドイツの爆撃機の話に限らない。

 ナチス・ドイツの爆撃機に応戦するため、気球、飛行を阻害する「小さな飛行船」、またモスクワへの接近路の高射砲師団が配備された。 女性は高射砲の位置標定装置のメンテナンスを行い、動く標的を探した。「母はこのような中隊の一つに入っていた。私と祖母は1941年の11~12月ごろ、ウリヤノフスク(モスクワの東890キロ)にあるおばの家に疎開した。疎開先は男の子ばかりで、私はなんと9人目だった」

 

いつもお腹がへっていた

1940年、ソスニン氏とおばあさん

ソスニン氏とおばあさん

 飢えから救われたのは、疎開先の家で二人の女性が働き、配給券を受け取ることができたからだが、状況は厳しかった。「平等にパンを切りわけるパン切り係の”責務”を一人が負い、パンの小さなかけらが皆にくばられていた。食料は非常に限られていて、いつもお腹がへっていた。ジャガイモの皮まで食べていた」とソスニン氏。

 疎開先からモスクワに戻ったのは1943年のこと。直通の帰路などなく、なんとかしてたどりついた。まずボルガ川を舟で進み、その後前線に向かう兵士を乗せた列車に乗った(他の列車を見つけるのは難しかった)。祖母は小さな孫を座席の下に隠した。モスクワの近くまで移動し、人であふれているトラックに乗り換え、ようやくモスクワの小さな8平方メートルのアパートに帰った。1943年には爆撃機はモスクワ上空を飛行していなかったが、砲兵中隊には解散してはならないという命令が出ていた。母は防空壕での生活を続けていた。「地面を掘って、全方向を木材で囲んで、上に屋根をつけて、その上に土をかぶせていたから、上から見るとまったくわからなかった」。ソスニン氏は母とそこに1944年まで暮らしていた。

 

戦勝ムードに変わる

1945年、ソスニン氏とお母さん

 この時にはすでに、高射砲は軍事目的にではなく、軍事作戦が成功するたびに祝砲として使用されていた。祝砲の数は増える一方だった。「高射砲の連結されたアメリカの『スチュードベーカー』に母と乗り、祝砲が打ち上げられたことは忘れられない。発砲音はとどろき、すべてを揺らした。本物の薬莢に装薬されていた。とても怖かったが、皆と一緒に乗れたことを誇りに思っていた」

 「人生はすでに喜びに変わっていた」とソスニン氏は回想する。チミリャゼフ農業アカデミーの警備された果樹園に送られ、こっそり忍び込んで果物をとってきたこともあった。「シーツに映画を映して見たのを覚えている。あと、男女が恋愛していたこと、あちこちに軍歌の歌声が響いていたこと…。兵士は私にもリクエストをしてきたから、他の砲兵中隊のために電話を使ってうたっていた。中隊の間は電話でつながっていたから」

 ラジオで合唱学校の生徒募集を偶然耳にし、終戦近くに入学した。当初は防空壕から登校していたが、その後寄宿舎を割り当てられた。「その防空壕のあった野原はまだ残っていて、空き地のまま。近くを路面電車が通っていて、私はここを通るたびに高射砲があった時のことを思い出す」