ソ連の核施設「マヤーク」:「ウラル核惨事」を写真で振り返る

テック
ロシア・ビヨンド
 ソ連最悪の放射線災害の一つが、30年間隠蔽されていた。地元住民も、何が起きたのか知らなかった。大惨事の結果、自然の恵み豊かな河川は汚染され、多くの栄えた村が衰退してしまった。この事故は、規模としては、1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故と2011年の福島第一原子力発電所事故に次ぐ。

 悲劇は、1957年9月29日の夜、キシュテム市近くの閉鎖都市「チェリャビンスク-40」(現オジョルスク)で起きた。すなわち、核施設「マヤーク」で、放射性廃棄物が入った容器が爆発した。事故の瞬間は、日曜日で休日だったこともあり、死傷者はいなかった。

 爆発音は、地域の多くの人に聞こえたが、そこでは建設工事が行われていたため、とくに変わったことが起きたとは、彼らは思わなかった。翌日、人々は、いつも通りに出勤し、その多くは直ちに、事故の影響を取り除くために各所へ送られた。ある者は路上で藪を掘り出し、ある者はトラクターその他の機器に鉛を張るのを手伝い、ある者は核施設の瓦礫を撤去した。

 爆発の結果、放射線を含んだ雲は、周囲数千キロメートルに広がったが、ほぼすべての放射性物質は、マヤーク周辺に降り注いだ。

 3週間後、原発のすぐ近くにある23の村が廃村となり、家屋は撤去された。私物は「汚染された」という理由で地中に埋められた。地元民1万2千人が別の場所に移住させられた。移転の理由については、彼らは知らされなかった。

 事故調査委員会は、最終的に次のように結論した。うなり声は、廃棄物貯蔵タンクの冷却方法に違反したために発生し、それが「放射性物質の溶液の乾燥」を引き起こして火花が引火した。

 「犯人」は、当時モスクワにいた施設長だとされ、その職から外された。しかし、その後、それ以上に罰せられることはなかった。

 この事故に関する情報は、ペレストロイカ末期の1989年まで機密扱いだった。国際原子力機関(IAEA)の評価によると、この「キシュテム事故」は、史上3番目に深刻な事故で、1986年のチェルノブイリ原子力発電所事故と2011年の福島第一原子力発電所事故に次ぐ。この地域は、依然として汚染されており、無人地帯だ。

 爆発そのもので亡くなった人はいないものの、放射能を含んだ雲は、発生源の周囲数千キロメートルに広がり、汚染した。爆心地の近くに住んでいた8千人以上が避難しなければならなかった。

 しかし、ムスリュモヴォ村は、そのまま放置された。ようやく2009年になって、村民は、新しく建設された村への移住を提案された。移転を拒んだのはわずか3世帯だった。彼らは今日に至るまで汚染された環境に留まっている。

あわせて読みたい:1970年代初めにモスクワからそう遠くない所で起こった核事故>>>