チェルノブイリ原子力発電所の汚染除去
イーゴリ・コスチン撮影/Sputnikチェルノブイリ原子力発電所事故は、1986年4月26日、プリピャチ市近くのチェルノブイリ原発の原子炉で起きた。これは現在ウクライナにあるが、1986年当時は、ウクライナはまだソ連の一部だった。しかし、チェルノブイリの大災害がロシアに関連している主な理由は、爆発後の汚染降下物が、ロシア、ウクライナ、ベラルーシおよびその他のソビエト共和国の巨大な領域とそこに住む住民に影響を与えたためだ。
チェルノブイリ原子力発電所事故の地域から来た自動車が除染を受けている。
ヴィタリー・アンコフ撮影/Sputnik数日の間、当局は集団パニックを恐れて事故を秘密にしていた。その間、汚染は劇的に広がった。大惨事から36時間以内に、原子炉に最も近い都市であるプリピャチで市民の避難が始まった。 人々は徒歩で、あるいはトラックで進んだ。子供たちと一緒に、所持品を携帯して、そして、天気が暖かかったので軽装で避難した。
だが、それは彼らの健康にとって致命的だった。有害な量の放射線を浴びた人のおおよその数さえ、いまだに不明だ。
事故後の数日間で、半径10キロメートル以内に住む人々は避難した。その後間もなく、避難区域の面積は、半径30キロメートル圏内に拡大された。
1986年4月28日、ソ連中央の報道機関はついに事故を報告したが、人々がどのようにして汚染を回避し、放射性降下物から身を守ることができるかについては、明確な指示を出さなかった。
1986年5月1日、メーデーの日。ウクライナ・ソビエト社会主義共和国。キエフ、フレシチャーティク通り。
ウラジーミル・サモホツキー撮影/TASS5月1日、ソ連のメーデーの日、キエフで恒例の大規模な行進が行われた。ウクライナ共産党を率いていたウラジーミル・シチェルビツキーも、妻子とともに参加した。彼はそれがどれほど危険であるかを既に知っていたけれども、モスクワの命令に抗うことができなかった。
放射能汚染地域の地図
Sting/Wikipedia.org原子炉の爆発後、最大50トンの放射性物質が大気中に放出された。その雲は、ソ連のヨーロッパ部分の一部、そして東ヨーロッパ、スカンジナビア、イギリス、そしてアメリカの東部を通過した。しかし、最も影響を受けたのは、ベラルーシとウクライナだった。
噂によると、放射能に汚染された雲がモスクワに向かうのを食い止めるために、ソ連当局は、飛行機を送った。それらの飛行機は、雲が中央ロシアに達する前に、ベラルーシの過疎地域で放射性粒子を洗い流すために、ベラルーシ領上空で降雨を誘発したという。この決定で生じた損害もまた見積もられていない。
全体としては、原子炉の爆発により、ウランとプルトニウムの同位体、ヨウ素131、セシウム、ストロンチウム90で、20万平方キロメートルの地域が汚染された。
野良犬が記念像の前を歩いている。後には原発事故を起こした4号炉の周りに作られた新しい巨大な囲いがある。2017年8月18日。
Getty Images大災害の後、約500万ヘクタールの土地が、農業と農村経済から除外された。2011年までに、この土地の約3分の1が再耕作され、その後農業活動に戻った。
大惨事の後、半径30キロメートルの居住禁止区域が恒久化された。面積は約2600平方キロメートルに及ぶ。その中心にチェルノブイリの町がある。圏内では約5千人が大災害の影響の清算に継続的に取り組んでいる。彼らのほとんどは、近くのスラブチッチ町に住んでいる。
居住禁止区域には、300人以上の人々が自発的に住んでいる。さまざまな種類の動物、魚、鳥がこの地帯に生息し続けている。しかし、汚染地域は居住禁止区域よりもずっと広がっている。1990年代には、汚染のために、より多くの村や町が過疎化した。
2016年4月26日、「チェルノブイリ環境放射能生物圏保護区」(ChREBR)が設置された。災害の影響を最小限に抑え、残る天然資源を保護、回復させるのが目的だ。保護区の公式面積は、約227ヘクタール。
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