GAZ-3105:ソ連の「資本主義的」な車

テック
ニコライ・シェフチェンコ
 GAZ-3105「ヴォルガ」のポテンシャルは大きかったが、1990年代、ソ連とともに消えた。

 これはソ連時代後期のユニークな自動車だったが、50台しか作られず、ソ連崩壊とともにプロジェクトは終わってしまった。

 当初このモデルは、1980年代末から1990年代初めにかけて欧米のメーカーに後れを取っていたソ連自動車産業にとって、あまりに有望なものだった。

 1980年代、ゴーリキー自動車工場(GAZ)はそれまでソ連で製造されたどのモデルよりも先進的な真新しい車を開発しようとしていた。その結果生まれたのがGAZ-3105だ。この車には、ストラット式サスペンションやパワーアシスト付きのラック・アンド・ピニオン・ハンドル、真新しいエンジン、斬新なドライブトレイン等、当時の最新技術が詰め込まれていた。

 ソ連の自動車産業にとって、このモデルを作ることは、資本主義陣営のメーカーとの競合を可能にする大きな技術革新に等しかった。

 GAZ-3105「ヴォルガ」の試作品は1980年代末までにすでに数台作られていた。この車の内装は型破りだった。窓は通常より大きく、上部は固定されていて下部だけが開くのだった。この一般的でない方法が導入されたことで、ソ連の他のモデルとは異なる真新しい外観が生まれた。

 また、この車はアウディ100に酷似していた。ソ連の技師はこのドイツ車に着想を得てGAZ-3105作りの参考にしたが、とはいえ完全にコピーしたわけではなかった。V8エンジンは新たに開発されたものだった。 

 他のソ連製の自動車に比べ、このモデルの技術は革新的だった。GAZ-3105は電動シート、電動ミラー、電動窓、電動アンテナを備えていた。リアシートも電動で、暖房装置もあった。

 このモデルを量産するという希望はソ連とともに潰えた。ソ連が崩壊し、新生ロシアがぼろぼろの経済を立て直そうとする中、ゴーリキー自動車工場に対する国の援助がなくなったのだ。工場は資金不足となってGAZ-3105の製造を続けられなかった。

 1994年、ロシアの初代大統領ボリス・エリツィンがゴーリキー自動車工場は少なくとも年間250台を製造すると定める政令に署名した。しかし、定められた数を製造できるだけの援助を国家は行わず、自動車は厳しい財政状況で作られることになった。このことは自動車の品質に大きく影響した。少しでも材料を節約しなければならなかったからだ。

 その結果が評判の悪い外見だ。自動車にはさまざまな部品が使い回され、一部には「ソ連製」、一部には「ロシア製」と書かれていた。内装は安いプラスチックで作られ、色が合っていないこともあった。イグニッションキーやガスタンクのプラグなどの小さな部品は他の自動車メーカー「ラーダ」から借りられ、そのメーカー名が刻まれていた。アウディ100の部品が使われることもあった。

 GAZ-3105は2つの時代の境目を象徴する車となった。すなわち、野心的な計画を持ったが政治と経済が機能不全に陥っていたソ連時代後期と、自己投資をし直してソ連の負の遺産である構造的な問題を解決せねばならなかった1990年代の新生ロシアの時代だ。不幸にも、GAZ-3105「ヴォルガ」はこの変化の中で生き残ることができなかった。

*ラーダに没頭するロシア人がいる理由についてはこちらからどうぞ

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