ソ連が最も多額の費用をかけた宇宙プロジェクト、宇宙船「ブラン」の開発を発表したのは1973年のことだった。何度も繰り返し使える船は、現在のイーロン・マスクの「クルードラゴン」のようなものになるはずだった。しかし、野心的なプロジェクトには同じく野心的なインフラが必要だった。とりわけ問題だったのが、全国の工場からステップ地帯にあるバイコヌール宇宙基地まで重い「ブラン」と運搬ロケットをどう輸送するか、ということだった。
「ブラン」の飛行試験準備が整った時点で、その輸送手段はまだなかった。世界最大の輸送機「ムリーヤ」はまだ計画段階だった。
宇宙船「ブラン」
Public Domainすべての技術工程を宇宙基地付近に集約することは現実的ではなかった。宇宙産業の拠点は全国各地に点在しており、統一的な中心地はなかった。鉄道輸送は技術的に難しかった。車両のサイズに比して貨物のサイズが大きすぎるためだ。水運も費用がかかりすぎた。
このため、1980年代初め、「ブラン」を輸送する臨時の重貨物機を作る案が生まれた。開発に当たっては、ソ連初の戦略爆撃機3M-Tの輸送機版をベースにすることが決まった。同機は30年以上にわたってソ連が米国と互角の核戦力を維持する支えとなっていた。
3MS-2
Candid at Russian Wikipedia (CC BY-SA 3.0)
「VM-Tアトラント」に改造・改名された飛行機は、機体上部に据え付けられた丸い貨物コンテナから、こっそり「空飛ぶ樽」と呼ばれていた。
「VM-Tアトラント」
Vitaly Kuzmin
しかし、その最大積載量は50トン未満で、完全装備の「ブラン」の重量はそれを上回っていた。そのため、「ブラン」は一部の装備を外され、45トンにまで減量された。
将来的にはバイコヌールに最大200トンの貨物を輸送する予定だった。
ブラン宇宙船と大型ロケット「エネルギア」、バイコヌール宇宙基、1988年。
Aleksandr Mokletsov/Sputnik「アトラント」の背に載せられた大きな貨物が飛行に与える影響は大きく、試験飛行はいつも大変な緊張感の中で行われた。多くの人は、この飛行機が空を飛ぶことすらできないだろうと考えていた。
「VM-Tアトラント」、1990年
Vladimir Yatsina/TASSところが、「アトラント」は見事試験に合格し、1981年から貨物の輸送を始めた。作られたのは2機だけで、合わせて約150回の試験飛行・商用飛行を行った。
「VM-Tアトラント」
Legion Media
さて、「ブラン」の臨時の輸送機として開発された「アトラント」だったが、結局「ブラン」の唯一の輸送手段となった。「エネルギア・ブラン」計画は1993年に打ち切られた。「ブラン」が宇宙へ行ったのは一度だけだった。
空飛ぶ宇宙基地となるはずだった「ムリーヤ」は結局一度も本来の役割を果たせなかった。その代わり、キリンを運んだり、スペイン王のヨットを運んだりと、思わぬ任務を与えられた。
「VM-Tアトラント」
Vladimir Rodionov/Sputnik2機の「アトラント」はそれ以来運用されていない。一機は現在リャザン郊外の飛行場にあり、もう一機は基本的にモスクワ郊外のジュコフスキー市に置かれている。後者は時折モスクワ国際航空ショー(MAKS)に展示品として参加している。
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