これは独ソ戦初期には赤軍の主力対戦車砲だった。1937年式53K 45mm対戦車砲は一般に「ソロコピャートカ」(「四十五ちゃん」)として知られた。
1941年6月、16000門以上のソロコピャートカがドイツ軍を迎え撃った。この砲はドイツのI号豆戦車、II号軽戦車、III号中戦車と戦うには十分だった。IV号中戦車も初期の型であれば十分に破壊できた。
ソ連の「砲兵隊下級指揮官指導書」によれば、37年式45mm対戦車砲は800メートルの距離から敵を砲撃することになっていた。しかし、この砲でドイツ軍の戦車を倒すのに最も有効な射程は実際には500メートルだった。
敵の兵器にこれほど近付くことは砲兵にとって非常に危険だった。もしドイツ軍の戦車を有効に仕留められなければ、無防備な砲(たった4.5ミリメートルの装甲板のみ)は砲兵もろともたちまち吹き飛ばされた。
このため、ソロコピャートカの砲兵になりたいと熱望する者はそう多くなかった。もしなればきっと死ぬだろうと思われていた。そんなわけで砲は有名な「さらば祖国」のあだ名で呼ばれるようになった。
ソ連司令部は37年式45mm砲の砲兵を鼓舞しようとかなり努力した。砲兵は報酬額を引き上げられ、敵の戦車を撃破するごとに賞与を得た。「給料は倍、命は半分」とソ連兵はよく冗談を言った。
1942年、I号豆戦車とII号軽戦車はほとんど姿を消し、新たに登場した装甲板の厚いドイツ戦車はソロコピャートカでは破壊できなくなった。しだいにこの砲は42年式45mm砲やZiS-2 57mm砲などのより強力な砲に取って代わられていった。37年式45mm砲は計3万7354門製造されたが、1943年に完全に製造中止となった。
こうして戦線を退いたソロコピャートカだが、パルチザンからの需要は高かった。軽量(わずか550キログラム)でカムフラージュや運搬が容易なこの砲は、待ち伏せ攻撃を仕掛けるのに最適だった。
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