1940年代末に設計者のミハイル・カラシニコフが開発した自動小銃は、その後ソ連軍の主要な兵器になるだけでなく、ロシアの象徴の一つとなった。
逆説的だが、ソビエトの設計者が開発したこの兵器は、革命の象徴の一つとなり、概して第三世界において各国の現政権に抵抗するパルチザンや反体制派の手に渡るに至っている。
ミハイル・カラシニコフは、1919年11月10日、アルタイ地方のクリヤという小さな村の農家に生まれた。将来の兵器開発者は家族で17番目の子供だった。家族には全員を養う金銭的余裕がなかったため、彼は7年生の時にトルクメニスタン・シベリア鉄道の建設現場で働き始めた。
そこで彼は機械や重機の構造に興味を持ち始め、その豊富な知識によって数年後にはソ連軍の戦車兵になった。
カラシニコフが最初のいくつかの発明品を開発したのは第二次世界大戦より前のことだった。その中には大砲の発砲数のメーターや、戦車のエンジン用の走行キロ数のメーターなどがあった。どの発明品も量産され、当時の軍事車両に使用された。
その後の1941年に独ソ戦が勃発、第二次世界大戦がソ連に波及した。この年の9月、カラシニコフは戦車兵として前線に向かったが、数ヶ月後には重症を負って軍事病院に入院する。彼の前線での戦いは終わり、兵器開発者はイジェフスクの兵器工場に送られる。そこで彼は軍用の火器の開発に取り掛かる。
カラシニコフは自身初の自動小銃を病院で開発することになる。これは戦車兵用のマシンピストルで、コンパクトで携帯可能な銃であり、兵士は狭い車内にそれを持ち込むことができるはずだった。だがこの銃には問題があることが判明する。射撃の集中度が悪かったのである。だが戦時中に長年の時間を割いてこの銃の改良に取り組める者などいない。このためプロジェクトは立ち消えとなり、カラシニコフは工場で量産兵器の製造に取り掛かった。
40年代初めには、新しいクラスの火器であるアサルトライフルが登場する。最初期のものはナチス軍に現れ、武器製造の世界に事実上の革命をもたらすことになる。
この小銃の特徴は弾薬にあった。一般の小銃用の弾薬よりは弱いが、拳銃弾薬よりはずっと強力だった。この組合せは、当時の小銃の威力とマシンピストルの速射性とを掛け合わせることを可能にした。射撃手は連射し、かつ当時の小銃同様に100~200メートル先の目標を攻撃することができるようになった。
カラシニコフが最初にして最重要の成功を収めたのが、まさにこのクラスの兵器の開発分野だった。7.62×39 mm口径というまさに「中間的」な弾薬を使用する有名なAKを開発したのだ。彼は自身の発明品を、戦争末期の1945年に国防省が開催したソ連軍新主要兵器開発コンテストで披露した。
40年代末、カラシニコフはコンテストでライバルたちを退けて優勝した。彼が働いていたイジェフスクの工場では、AK-47の名で世界に広く知られることとなるカラシニコフ自動小銃の製造が始まった。
なお、世界で最も有名なこの自動小銃は、第二次世界大戦で捕虜となったシュマイザー・コンツェルンのドイツ人技師らによって一連の改良を加えられることとなった。コンテストで明らかとなったAK-47の重大な欠点は射撃の集中度で、事実上集中度は皆無に等しかった。それから数年間、ロシアとドイツの技師らはAKのこの欠点の解消に努めることになる。
結果として既存の火器の中で最も信頼性の高いプラットフォームが完成した。今日でも信頼性の高さは揺るがない――これはロシア特殊作戦軍(SSO)の隊員がロシア・ビヨンドのインタビューで語った所感だ。
「カラシニコフは、射撃の精度と集中度および人間工学の点でアメリカとドイツの銃に劣る。つまり、速さが求められる閉鎖的な狭い建物での作戦では、私ならARやH&Kのプラットフォームを選ぶ。だがシリアなど近東での作戦なら、一義的にAKを選ぶ。信頼性が高く、機構が素直だからだ」とSSOの隊員の一人はチェチェンでのロシア・スペツナズの訓練の際に話した。
AKのプラットフォームはまさにその信頼性の高さゆえに世界中で人気を得た。製造が簡単というのも重要なポイントだ。現在世界55ヶ国に約一億丁のカラシニコフ小銃がある。なおこれは正式に登録されている数であり、「手工業的」に製造されたコピー製品は含まれていない。この武器は第三世界の国々で独立を目指すパルチザンや武装勢力に所有されているのを目にすることができる。
その理由はいくつかある。機構の単純さと信頼性の高さについてはすでに述べた。もう一つ重要なのが値段だ。東欧製のAKの市場価格は約300ドルだが、主要なライバルである米国製のAR-15の値段は1000ドル以上だ。
カラシニコフ自動小銃は社会主義陣営のすべての国ならびに他の多くの国々で制式採用された。現在でも、アルバニア、ブルガリア、ハンガリー、エジプト、イラン、中国、ポーランド、ルーマニア、北朝鮮でAK-47の変種がしばしばライセンスなしに製造されている。
AKのシルエットは、モザンビークとジンバブエの国章や国旗、紙幣のデザインの要素の一つとなっている。
AKは世界の犯罪社会でも人気だ。例えば、ラテンアメリカの麻薬カルテルは、この銃に“cuerno de chivo”(「ヤギの角」の意、マガジンの形状に由来すると思われる)というあだ名まで付けた。
カラシニコフが40年代末に開発したプラットフォームは、ソ連の全兵器開発分野の発展の礎となった。言ってしまえば、ソ連およびロシアにおいて、その後のすべての自動小銃と機関銃は、口径や大きさにかかわらず、AKのガス圧作動方式を基本として作られてきた。
AK開発後の半世紀間、ミハイル・カラシニコフは弟子らとともに、イジェフスクで一連の自動小銃を開発した。例えば、狭い建物内での作戦や市街戦(こうした場所では、AKは威力が強すぎて壁を貫通し、民間人を負傷させかねない)に適した9 mm口径の小型小銃「ヴィーチャシ」が挙げられる。カラシニコフが開発し、その後いくつか派生版が作られた機関銃、7.62×39 mm口径の「ペチェネグ」もある。70年代には、AKの改良版である5.45×39 mm口径のAK-74も開発された。その他にも、さまざまな軍事車両に搭載するための火器をいくつも生み出した。
「第二次世界大戦がなければ、私はおそらく厳しい農作業の負担を減らす重機を開発していたことだろう。私が兵器開発者になったのはドイツ人のせいだ」とミハイル・カラシニコフはAK-47誕生60周年記念展示会で記者らに語っている。
ミハイル・カラシニコフは晩年もイジェフスクの自身の工場で新兵器の開発に携わっていた。2013年12月、兵器開発者は重い病気が原因でこの世を去った。
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