1934年に設計されたもので、モスクワの地下鉄(その1年後に開通した)の最初の車輌であった。クラスAはクラスBに引き継がれたが、こちらは近代化された車輌であった。とりわけ、大きく改良されたのはドアが閉まる際のアラートシステムであった。
多くの車輌が第二次世界大戦の間に接収されたため、モスクワの地下鉄が再び本格的に再稼働したときには車輌が不足していた。その結果、Orenstein & KoppelとWegmann & Co.工場が設計した120台の車輌が、戦後補償としてベルリンの地下鉄から持ち込まれた。いくつかはポーランドに送られたが、後の残りは近代化され、モスクワの地下鉄で退役した。それがクラスVと呼ばれるものである。
第二次世界大戦勃発前の1939年に設計されたクラスGの車輌は、それ以前に製造されたもの(AとB)よりもはるかに近代的なものであった。走行速度もより早く(それまで時速65キロだったのが時速75キロになった)、より快適で、修理も簡単であった。クラスGの車輌はモスクワの地下鉄で初めて、今では伝統となっている青色に塗られた。
1955年に登場したクラスDはソ連邦解体まで生き延び、1990年代の半ばまで使用された最初の車輌である。この車輌はモスクワの地下鉄だけでなく、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)、キエフ、ノヴォシビルスク、サマーラなどでも精力的に使用された。
これらの車輌の外観はこれ以前のモデルとまったく異なっている。広々としていて、車体も大きく、走行速度も速く、製造しやすいものだった。しかし、このモデルは火災の安全基準に合致しないとして断念を余儀なくされ、プロジェクトはテストの途中で頓挫した。
1976年、名前に文字がつかない新しいタイプの車輌が作られた。異なる改良モデルを合わせて7,280ユニットを超える車輌が作られたこの81-717/714 は、ロシアでもっとも一般的な車輌である。ここで導入された最新技術は、乗客と運転手を直接繋ぐ非常時のボタンである。
クラスヤウザは、途中で頓挫したクラスIプロジェクトを復活させようという、1990年初頭に生まれたロシアのデザイナーによる試みである。模型が公的にボリス・エリツィン元大統領、政府高官、モスクワ市当局に公開されたが、ヤウザは不運な車輌であった。ヤウザはテストに合格せず、次々と微調整を繰り返したのちに、ようやく生産開始された。限られた数の車輌がモスクワの地下鉄路線の運行に使われたが、結局、プロジェクトはまもなく終了した。
ルシッチ車輌は一つ前のヤウザに比べると非常に成功した。2002年にフランスのアスルトム社のアシスタンスの下で設計されたもので、モスクワの全車輌の3分の1、カザンの地下鉄の半数、ブルガリアの首都ソフィアでも半数を占める。最初のルシッチ車輌はブレーキシステムに問題があり、よくプラットフォームを行き過ぎていたという。
2010年に登場したこのモデルはヤウザやルシッチよりも安価に製造された。オカはロシアで初めて、車輌間を歩いて移動することができるタイプのものであった。
これらの車輌はモスクワの地下鉄における最新車輌である。車輌間の移動が完全に可能で、車椅子も十分に通れるスペースが確保されている。また新たな空調システムやUSBチャージャー、それに暖かいカバーがついた手すりが設置されている。しかしこれまでのモデルとの決定的な違いはより走行がスムースで静かであることだ。
*ところでモスクワの地下鉄にはロシアの歴史や文化にちなんだ特別な装飾がなされた車輌があるのをご存知でしょうか?ぜひこちらでごらんください。
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