大統領は全国民の全問題に対応

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 国家元首がQ&A形式で全国民と定期交流するという例は、世界でもかなり珍しい。しかも長時間にもおよぶ。ロシアでも、ウラジーミル・プーチン氏までは、誰も実践していなかった。

 プーチン氏と国民の「直接対話」が初めて行われたのは2001年12月。以来、毎年行われている。質問をしたい国民が氷点下の中で何時間も待たなくていいようにと、春の開催になったのが、唯一変わった点である。今年は3時間半で80件の質問に答えた。質問の件数は、事前に寄せられた主要な分と番組中の分を合わせて、300万件を超えた。つまり、国民がプーチン氏に質問を書いたり、電話したり、動画メッセージを送ったりするのは、自分の質問が番組で取り上げられることを期待するというより、政府との「接触」形式の一つとして利用しているということであり、プーチン氏がすべてを知り、聞き、そして最終的にはすべてを解決してくれるのだという信ずる気持ちの現れなのである。

 

ロシアの伝統「善きツァーリ」に根ざす

 このプーチン氏の「国民との直接対話」の案は、ベネズエラで毎週放送されているウゴ・チャベス大統領のテレビ・ラジオ番組「こんにちは大統領」から拝借されたと考える人もいるが、実際には、このような形式の国の統治者と国民の交流は、ロシア史に深くルーツを持つものである。

 最高統治者が、いかなる大貴族も仲介役人も介さずに、国民と一対一で一定の時間交流する機会が、かつて設けられていた。ロシアでは昔から、大貴族や役人は誠実な意図や国のトップの政策を歪めてしまうと考えられている。このようなイメージから、国家元首だけが、崇高な公正性を持つ者なのだ。

 ロシア史の初期では大公に、次に皇帝に、「ジャロブニツァ(苦情書)」をもって訴えていた。イワン雷帝の時代、中央集権国家の機構ができていくのにともない、より解釈の広い「チェロビトナヤ(訴願書)」があらわれるようになった。訴願書は特別な訴願省、現代で言うところの大統領報道担当部門や大統領府の法務部門に提出されていた。これは苦情だけでなく、要請、告訴、またはその他の皇帝への陳情書類であった。厳密に言うと、当時は政府機関へのすべての訴願は君主宛てであった。現代の人物を交えて例えるならば、農民が補助金を求めて農業省に訴願書を書く際に、「ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ閣下」から文章を始めるのだ(ウラジーミル・ウラジーミロヴィチとはプーチン氏の名前と父称)。「国と法」は、一人の人物すなわち「皇帝と父上」に擬人化されていた。君主は、イワン雷帝でさえも、大衆に優しい人物とイメージされていた。

 個人の訴願書は18世紀まであったが、その後、「プロシェニエ(嘆願書)」という言葉が頻繁に使われるようになり、次に「ペティツィヤ(請願書)」という言葉が出現したが、本質的には変わらなかった。法と裁判所がある。だがその上と、いわゆる法執行者つまりはずるい貴族や汚職役人の上に、最高裁判所と最高の公正性がある。真実を勝ち取る手段がこれ以上ない、またはそれらの手段を信用できない時に、そこに訴える必要があるのだ。

 

ソ連にも引き継がれる

 政府への直訴は、ソ連政府が樹立した後、広がった。民衆の知恵は、政府と表立って対立する(通りでの暴動など到底無理であるが、裁判でさえ難しい)よりも有効な道筋、すなわち請願の道筋を示した。政府はこのような手段をそれなりに支援したため、政府宛てに個人的な手紙や集団の手紙を送ることによって、一定の合意ができたり、とても多くの問題をうまく解決できたりした。つまり、これは機能していたということだ。

 個人レベルでは、アパートの配分、治療の支援、刑務所からの親戚の出所の後押し、パワハラ上司への厳しい対処、具体的な場所での秩序整理など、あらゆる事象について請願するのが普通だった(このような問題は、今や「直接対話」番組で扱われており、大統領宛てに送られ、後で大統領府が対応するため、送った人全員が何らかの回答を得られる)。スターリン、フルシチョフ、ブレジネフだけでなく、ソ連共産党州委員会や新聞にも送られていた。新聞への手紙はしばしば、状況の打開、公正さの獲得、問題の解決に、非常に有効な手段となっていた。

 現在、マスコミの権威は、落ちる傾向にある。多くの他の社会制度や政治機関も同様である。大統領の権威だけが高まっているのだ。制度として、また人間として。そして大統領は今後も、あらゆる社会制度と国家機関の活動に足りない効率を補っていくのである。

ゲオルギー・ボフト、外交・防衛政策会議メンバー

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