ナタリア・ミハイレンコ
ザハール・プリレーピン氏 |
多少ともロシア文学に通じている西側の読者にとって「ロシア女流小説」といえば、まずリュドミラ・ウリツカヤ、タチヤーナ・トルスタヤ、リュドミラ・ペトルシェフスカヤの名が浮かぶ。
これらの作家はいずれも1980年代後半に文壇に現れた。彼女らの小説が人生肯定的なものであることはまれであった。総じて読んだ印象は重苦しく、暗いことすらあった。
表面的にはこんな説明がなされていた。彼女らは人生の大切な部分をソ連で生き、その時代の思い出はおおむね好ましくなかったからそうなった、と。
1990年代の世代にはウリツカヤ、トルスタヤ、ペトルシェフスカヤと肩を並べるものを挙げるのは難しい。最もすぐれた作家は、独立独歩でナボコフの路線を受け継ぐオリガ・スラブニコワであろう。
この年代の女性作家による小説に特徴的なのは無恥や自由の限界における凄絶(せいぜつ)さの感覚であり、夭折(ようせつ)したナタリヤ・メドベージェワの小説にそれが表れている。できるだけ激しく奔放に、ソ連的な偽善や人間の自由を抑えようとする試みと決別しようとしていた。
ぱっとしない新時代
ソ連が崩壊して四半世紀が過ぎようとしている。古い時代を知らない代わりに、それに劣らずぱっとしない新しい時代を読み解かざるをえない新たな女流作家の世代が育っていった。
ソ連時代の作家に特徴的だったのは卑俗なアプローチであり、主人公たちが耐えることになる醜悪なことをソビエト体制によって説明していた。
2000年代には驚くべき発見があった。ソ連体制がなくても、女性は幸福にならなかった。それどころか、さらに苦しくなったように思われる。
最近、私は女流小説のアンソロジーを編集し、25歳から40歳までの14人の女流作家の短編と中編を収めた。
この世代で有名なのはマイヤ・クチェルスカヤ、マリーナ・スチェプノワ、アリサ・ガニエワ、アンナ・スタロビネツ、ナタリヤ・クリュチャリョワである。彼女らの小説はすでに外国語に翻訳されている。
アンソロジーに収める作品の選択に際し、私は一切基準を設けず、気に入った作品を選んだ。出版社へ原稿を渡す前に読み返したが、ある傾向がはっきり見てとれた。
保守的で非政治性
現代女流小説に特徴的なのは、非政治性である。人間の幸不幸はその国の経済システムとはまったく無関係であることが明らかとなったのである。
こうした小説のもう一つの特徴は、女性の主人公の幸福への志向が実現されることは決してないことだ。もはやスターリンも内務人民委員部もなく、粛清について語られることもない。それにもかかわらず、現代女流作家の作品の女性の主人公たちが生きている世界から受ける印象は重苦しい。
その際、女流文学の代表らが信奉している価値は極めて伝統的で保守的ですらある。生存と生活、家庭と慈愛、静かな宗教性……。
男性は描かれず
私を当惑させた一連の作品の特徴は、ヒーローとしてですらなく、一般の登場人物としてさえも男性が欠落していることである。
これがフェミニズムだとしたら、男性は女性にとってわずらわしいものであろう。女性は男性を望まず、男性は女性にとってあまり必要ではないのだから。
女性は現代ロシアの小説において孤独に人生を築いている。力の限り生きており、最期まで屈しない。
どうやら、女性はもはや幸福であるか不幸であるかを自分で選択することを学びつつあるように思われる。
女性には子供がある。つまり、未来とともに希望がなくてはならない。希望は感じられるが、どこにあるのか、見当がつかなかった。おそらく、女性そのものが希望なのだ。
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