ノリリスクの通りを、メスのクマが人々と並んで散歩をしていた。首輪もつけず、思うままに。そのクマの名はアイカ。1974年、アイカは映画監督のユーリー・レジンが所有していた、ありふれた3部屋のアパートに暮らし、セモリナ粉の粥を食べ、自分の手でバルコニーへのドアを開け、そして人間を自分の家族だと考えていた。
ユーリー・レジン監督はテレビ番組を見て、アイカのことを知った。アイカはニコラエフ市の動物園で生まれたが、母親がおっぱいをやるのを嫌がった。そして380㌘の仔熊は動物園の職員たちの手で育てられることになったのだという。レジン監督はかなり前からホッキョクグマの生態についての映画を撮影したいと考えていたため、アイカを譲ってもらえるよう動物園の園長を説得した。
5ヶ月になるまでアイカは監督のアパートで、監督の妻リュドミラと6歳の娘ヴェロニカと一緒に生活した。アイカには水分の多いセモリナ粉の粥が与えられたが、アイカは1日に多くて12本のボトルの粥を食べたという。そしてその後、魚や肉が加えられるようになった。レジン監督はアイカを連れて、北方の街を散歩した。
レジン監督一家は、フランツヨシフ諸島にあるチャンプ島で、ホッキョクグマの生態についての映画を撮影した。監督はアイカが仲間のクマたちと仲良くなり、野生の中で生きてくれることを望んだ。しかし、6ヶ月の遠征で、アイカは一頭のクマとも仲良くなることはできなかった。結局、アイカは、レジン監督の映画の主人公となり、その映画は1975年に公開された。
レジン一家は、少し大きくなったものの、相変わらず人々に懐くメスのクマと共にノリリスクに戻ってきた。しかし、そのときアイカの体重はすでに300㌔に達しており、アパートには入らなかった。そこでアイカはベルリン動物園に受け入れられることになった。
しかし別れはとても辛いものだった。後に動物園の職員が語ったところによれば、アイカはベルリンに移された最初の2日間、絶え間なく遠吠えしていたという。そしてアイカはそれからたった1年後、檻に入ったまま崖の上から転落し、命を落とした。レジン監督は、アイカが死んだのは、あまりにも早く動物園に手渡したからだと、自分を責めた。
ノリリスクでは、アイカを記念して、スポーツ施設の名称にその名前が付けられた。また2020年には、その近くに、人間と共に生きたクマ、アイカの記念碑も建てられた。
ユーリー・レジン監督の映画「シロクマ」(1975年)