1. 雪で絨毯をきれいにする
ソ連時代の人々の絨毯への情熱(これについてはこちらから)は、その状態を注意深くチェックすることを余儀なくさせた。床に敷かれたものはもちろん、壁にかけられた絨毯は大量に埃を集めるため、埃を払う必要があったのである。そのために住宅の中庭に、特別な構造物が設置され、そこに絨毯がかけられた(ちなみにまだこの構造物が保存されている中庭が今でもある)。特に、この作業は冬に行うと効果的であった。雪が絨毯をきれいにしてくれるからである。
あれから何年も過ぎたが、ソ連のアパートで使われていた同じ絨毯は今も自らの役割を果たしており、人々はいまだに昔の習慣のまま、同じ方法で絨毯をきれいにしている―つまり、中庭に運び、そこで叩くのである。
2. 壁は半分だけ塗る。しかも色は緑か青。
この奇妙なやり方は節約のためである。壁のペンキを塗るときは、白い壁の色が体につかないよう、また同時に壁を汚れないように、人の身長あるいはそれより少し下で終らせた。
これは何より公共スペースの壁で取り入れられた方法であった。アパートの入り口、病院、文化会館、食堂、トイレなどである。しかも、使われる色は緑か青と決まっていた。この色のペンキはいつでも売られていたからである。というのも、これらの色は自動車産業、防衛産業、鉄道の車両を塗るのに、大量に生産されていたのである。また緑や青は、落書きや建設工事のミス、その他の問題を隠すのにちょうど良いとされていた。
現在は色の選択に制限はないが、アパートの入り口などの場所は今でも同じように塗られている。どんな色を塗るのかは、住民たち自身が決め、その希望を運営会社に出すことができるが、積極的な意見を出さなければ、90%の割合で、暗黙の伝統で、壁は緑か青で、半分だけ塗られることになる。
3. 誰も使わない食器
1年のほとんどの間、食器棚に仕舞われたままのクリスタルあるいは陶器の食器セットは、ソ連の家の典型的な習慣であった。ソ連時代、それらの食器セットは、裕福さと品薄の製品のシンボルであり、人々はガラスの容器に保管し、非常に特別な日に、誰かが訪れていたときにだけ使った。それ以外のときには、家族は別の安い食器を使い、「美しい食器」で食べるなんて考えられないことであった。
この習慣は、もうモノ不足などなく、また食器セットでステータスを示すことなどできなくなった今も続いている。「祝日のための」食器は何年も箱に入れたまま仕舞われ、特別な機会を待っている。多くの人々が、祖母から受け継いだクリスタル製品をなかなか捨てられずにいるのである。
4. ソ連崩壊後の花壇アート
「模範的な生活文化の家」、これはソ連でもっとも手入れの行き届いたきれいな中庭を競う戦いである。この戦いを制した家には「模範的な家」というプレートが贈られた。このステータスは、いかなる賄賂でも手に入れられず、懸命な努力と大きな創造力をもってのみ獲得することができた。
住人たちは、自分たちの住宅の中庭を、見た目が「面白く」なるよう(身近にあるもので)飾った。
それには古いジェリカンやタイヤからベニヤ板までありとあらゆるものが使われた。この「コウノトリ」や「ワニ」、「白鳥」は根絶できないものに思われる。ロシアでは、老朽化した自動車のタイヤを使ったアート作品には罰金を導入した(危険度4)が、大きな効果は出ていない。
5. マンションのホールを飾る
マンションの入り口にさまざまなものを置いて、より快適にしようというのも伝統と言える。出窓には花を飾り、階段ホールにはソファとテーブル、ときにはカーペットが敷かれていることもある。
サハ共和国のアパートの入り口を見れば、公共のスペースを「家庭のように居心地良くする」ことが今でも人気であることが分かる。
6. バルコニーを物置にする
ソ連の典型的な居住空間は広いとは言い難く、人々は1㍍でも広く使おうと悪戦苦闘した。しかしながら、たとえば、スキー板や子ども用のソリ、冬用のタイヤ、あるいは単にそれほど使わないものをどこかに保管しておく必要があった。その結果、バルコニーが物置になり、1年中、いろんなものが詰め込まれた状態となっていた。今も、「バルコニーに仕舞っておこう」というフレーズは、多くの家庭でよく聞かれる言葉である。
7. 勤労奉仕をする
ソ連政府が誕生した直後、すべての人のために無償で働く勤労奉仕が「真の社会主義国家」の象徴の一つとして開始された。この勤労奉仕は、企業レベルでも(4月のレーニンの誕生日に、職員たちは全員、無給で働いた)、家庭のレベルでも存在した。家の周りを掃除したりするスボートニクに参加することは、社会的に奨励される行動と見做された。スボートニクは、最初は革命に対する熱意の表れであったが、時とともに義務的なものに変わっていった。
ソ連という国はもう存在しない。しかし、集団での一斉清掃の習慣は今も残っている。とはいえ、この習慣も終わりに近づいている。この行動は、社会主義的なイデオロギーとはもはや関係なくなって久しく、都市の公共サービスがすべきだと考える人が増えてきたからである。