「それはまさに疫病でした。治療法のない、長期にわたるもので、飢えも戦争もそれを治すことはできませんでした。就学前の子どももティーンエイジャーも大人も既婚男性もそれにすっかり感染してしまいました」。ミハイル・コロソフは、ソ連時代、国じゅうで広まった鳩への愛について、こんな風に書いている。鳩はモスクワ中に溢れ、そして仕事を休む理由にもなった。
軍に仕える鳩
最初の鳩舎がモスクワに現れたのは200年前のことである。最初の鳩飼育者はロシアのエカテリーナ2世の愛人だったアレクセイ・オルロフ伯爵であった。オルロフ伯爵の農奴たちは、白い特別な種類の鳩を飼育し、その飼育において成功を収めた者は解放された。オルロフは、もっとも美しい鳩を女帝に贈ったが、このことをきっかけに、女帝も鳩に関心を持つようになった。
しかし、19世紀の帝政ロシア時代、鳩の飼育は、退屈した領主たちの娯楽となった。これが大々的に広がったのは20世紀初頭で、この時にはロシア鳩スポーツ協会が創設されたほか、モスクワ、サンクトペテルブルク、近郊の都市の間に、伝書鳩のステーションが作られた。居住区の間の通信に使われた鳩は、参謀本部の管轄に置かれた。1914年、ロシア軍には4000羽を超える鳩がいた。
戦争から戦争まで
しかしながら、この帝政のものではない伝書鳩は、数千人の人々を鳩飼育に夢中にさせるきっかけとなった。革命と内戦ですべての鳩が消えた。すべて捕まえられ、食べられたのである。
これを復興させようとしたのはソ連になってからで、1925年のことであった。しかも、これは国家にとっての必須事項となった。ソ連全土に伝書鳩の飼育場が作られた。加えて、人々は実利的でない、美しいだけの鳩には関心を持たず、忍耐強く、スピードのある鳩に関心を抱いた。鳩スポーツセンターでは、飛ぶスピードや距離を競う大会が度々行われた。
これを機に、鳩飼育は、新しい国で大きく繁栄するものと思われた。しかし、また地政学的悲劇がこれを妨害した。1941年、モスクワの司令官は、すべての市民に対し、「3日以内に、敵に使用させないため、鳩を警察署に届けるよう」指示したのである。鳩はドイツ軍の手に渡る可能性があったからだ。こうして鳩はまたいなくなり、鳩は生まれては、全滅するというプロセスを繰り返した。
すべての責任はピカソにある
真の「鳩革命」が起きたのは、1950年代。そのきっかけを生んだのは画家のパブロ・ピカソであった。というのも、1957年にモスクワは第6回世界青年学生祭典が開かれることになっていた。それは戦後初めて、ソ連と西側の間にあった「鉄のカーテン」が開かれる出来事であった。世界131カ国34000人の若者がソ連にやってきた。熱心な鳩飼育者であったパブロ・ピカソが祭典のシンボルを考案した。それが平和の鳩である。当時、鳩は普通、開会式で、友好と連帯の印に空に放たれた。
モスクワ市は顔に泥を塗ることはできなかった。そこで、開会式に使う多くの鳩を必要とした。しかし、第二次世界大戦後、鳩はほとんど街に残っていなかった。そこで、祭典のために十分な数の鳩を飼育するため、まず共産党内部でインストラクターを任命し、まさに皆で力を合わせて、それを育てることになった。文字通り、児童から大学の教授まで、すべての人がこれに参加したのである。
「モスクワの工場の屋根にある巨大な鳩舎、学校、中庭・・・、ありとあらゆる場所で鳩が飼育されました」と回想するのは歴史家でモスクワ研究家のアレクサンドル・ヴァシキンさん。「1950年代から、仕事のない日や休日に、隣人たちが足繁く通う緑や青に塗られた鳩舎がない中庭はほとんどありませんでした」。
共産党は、それぞれの企業にも鳩舎を作るよう命じ、党員の中から、経験豊かなアマチュアの鳩飼育者をそれぞれの鳩舎の管理者とし、鳩の飼育に携わるメンバーらは他の職務から解放された。市の活動家が地区のクラブなどで数千の鳩を飼い、学校の校庭でも数百羽の鳩が飼育された。鳩の餌は市内の広場で売られ、中央通りには、「鳩に注意!」という看板まで現れた。その看板のあるところでは、運転スピードを時速5㌔以下にしなければならなかった。
1957年7月28日、34000羽(祭典の招待客の数)の鳩がモスクワの空に放たれた。目標は達成されたのである。しかし、面白い趣味に出会ったモスクワっ子たちは、その経験を忘れることはなかった。逆に鳩の飼育は文化現象のようなものになったのである。
男たちの集い
第一に、数千もの鳩を一斉に空に放つというイベントは皆の気に入り、大規模なフェスティヴァルや大会などの伝統となった。数千の鳩は、1980年のオリンピックのときにも、1985年の世界青年学生祭典のときにも、そして1986年のグッドウィルゲームズのときにも空に放たれた。
第二に、鳩の飼育をしたのは男性のみであった。そこで、男たちはガレージでもそうしていたように、お酒を手に鳩舎に集った。鳩舎には女性はほとんど寄り付かなかったため、鳩舎は男たちが女性のいない場所で、あれこれ話す集いの場となったのである。
もっとも、1980年代になると、鳩の飼育人気はピークを迎え、「真の男性」の活発な活動とは思えないこの趣味は、無気力で奇妙なものと捉えられるようになった。1985年に公開されたウラジーミル・メンショフ監督の映画「愛と鳩」では、この現象が見事に描かれている。
しかし、そんな「無気力な」男性はモスクワに少なくはなかった。隣人よりも多くの鳩を飼い、珍しい種の鳩を手に入れ、スピードのある鳩を育てようとする真に熱心な飼育者もいた。盗難事件も起きた。鳩舎から鳩を単に盗んだり、または隣の鳩舎に雌鳥を送り込み、鳩の数を増やすという方法を用いる者までいた。
鳩飼育熱が完全に冷めたのは、ソ連の崩壊のときである。人々は鳩どころではなくなったのである。鳩舎は何年もの間、新しい建設事業が始まるまで、過ぎ去った時代のシンボルのように、空の状態で置かれていた。ごく稀に、モスクワの住宅の中庭に今でもかつてのソ連時代の鳩舎を目にすることができる。