イズバ(農民の住居)、1927年
Boris Ignatovich/MAMM/MDF/Russia in photoロシアの農家でペチカ以上に神聖な場所など考えられない。ときには家の半分ほどを占めるほど大きな暖炉は、まさに家の中の家であった。人々は、ペチカで食事を作り、ペチカで暖をとり、ペチカに食器を保管し、ペチカで衣類を乾かし、またペチカの向こうで出産をし、死を迎え、また地域によってはペチカで体を洗い、そしてもちろん、ペチカの上で眠った。
ペチカは家の中で最高の「ベッド」であり、家族の誰もが近づけたわけではなかった。
人々は最初からペチカの上で寝たわけではない。8世紀から13世紀にかけて、ペチカには煙突がなかったため、煙はドアや天井の下の壁についた小窓から外に出ていっていた。しかし15世紀から16世紀にかけて、火につよいレンガが作られるようになったことから、ペチカには煙突がつけられるようになった。そしてそれと共に新しい機能が誕生したのである。
ロシアのペチカは、どれも共通した1つの目的を持っていた。それはあらゆる方法を用いて最大限に効果的に温めるというものである。そこで、ロシアの代名詞とも言える長くて寒い冬は、多くの点でこのペチカのおかげで乗り切ることができたのである。もっとも激しい酷寒のときも、ペチカは1日に1度火をつければ、家屋の中の暖かさを保つことができた。ペチカの壁の厚みは25〜40センチで、それにより熱をよりよく蓄えることができ、熱気を均等に分配することができた。日中に火を入れたペチカは夜になってもまだ暖かさを保っていた。
寝床として使われていた場所は「ペレクルィシカ」と呼ばれる。これは天井下にある一番上のレンガの層で、もっとも暖かい場所である。この「ペレクルィシカ」の部分に厚い布と毛布を敷き、寝床を作った。天井との間には座るのに十分な高さがあり、ここで座っていることも多かった。冬の時期、家の中でペチカをずっと焚いている状態であれば、この場所の温度は25〜27℃くらいで保たれていた。
しかし、家の中でもっとも暖かく、もっとも快適なこの「ペレクルィシカ」で寝ることができたのは、特権を持つ者だけであった。というのも、ここには家族全員が寝るだけのスペースはなかったからである。典型的な農民の家族というのは、概して子だくさんであった。しかしこのペチカの上の寝床の大きさはもっとも大きいものであれば5〜6人は寝られたが、一般的なサイズであれば2人寝ればいっぱいであった。
そこで普通はこの場所は家族でもっともえらいとされる人、またはもっとも年配の人のものになった。つまり家長か高齢の家族である。またペチカには病気の人を寝かせるという習わしがあった。というのも、ペチカは病を治す力を持っているとされていたからである。また小さな赤ちゃんのお世話をする場所でもあった。
それ以外の家族は許可がなければペチカで寝ることはできず、ペチカと壁の間に作られた棚のような特別な場所に寝た。このポラチと呼ばれるベッドは一般的には2段になっていて、「ペレクルィシカ」ほど快適とは言えなかったものの、暖かかった。
ロシアのペチカは高価であり、また複雑な構造を持っているため、もっと簡素でコンパクトな代用品が誕生すると同時に、過去のものとなった。こうした動きが始まったのは、19世紀の半ばごろ、ロシアの家で、コンパクトなオランダ製のレンガの暖房が使われるようになったことによる。このオランダ製のレンガの暖房の上に寝ることはできなかったが、かつてのペチカよりも使いやすかった。
古いロシアのペチカは今でも、田舎の村に行けば目にすることができる。そしてもちろん数はかなり少ないとはいえ、今でもロシアのペチカ―現代スタイルにしたものや古いペチカを模したもの―を家に置いている人もいる。
ペチカの平均的な値段はかつてと同じように高価である。小さめのクラシカルなモデルでも8〜21万ルーブル(およそ11〜18万円)、さらにたとえば階段のついた暖炉のように、もっと凝ったものであれば、70万ルーブル(およそ110万円)もする。そしていまもそんなペチカの上で眠っている人もいる。
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