世界の人たちはロシアチームがオリンピック東京大会2020に参加していないのかと不思議に思っている。その代わりに「ロシア・オリンピック・コミッティー(ROC)」と名付けられたチームが出ている。そう、手短かに言うと、ドーピング問題でロシアの国旗のもとでは国際的な競技会に参加することが禁じられた結果、こうなってしまったのである。
ロシアチームは公式には出場禁止になっているにもかかわらず、アスリートたちとオリンピック委員会は、東京大会2020(新型コロナウイルスのために2021年7月に延期された)に参加する方法を模索した。国際オリンピック委員会(IOC)に「ロシアオリンピック委員会(ROC)」の名のもとで参加することは出来ないか伺いをたてた。これだと禁止されている「ロシア」という言葉が表に出ないからだ。
そして、禁じられたロシア国旗のイメージを連想させる色を使ってデザインされたROCのマークをも使うこともできるようになった。またIOCはロシア国歌(同様に禁止された)に代わって、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第1番の一部を演奏することを許可した。
実際、ROCには長い歴史があり、独自の行動をするのに十分値する。その理由を説明しよう。
ロシアオリンピック委員会が設立されたのはいつ?
1911年に設立されたこの組織は2011年に100周年を祝った。
ロシア帝国のアスリートは近代オリンピックの最初の3大会には参加しなかった。1908年のロンドン大会に初めて8人の選手を送り、いくつかのメダルを獲得した。1912年には新たに設立されたオリンピック委員会が第5回ストックホルム大会に178人の選手を送り出し、すべての分野に参加したが、残念ながら、金メダルを獲得することは出来なかった。
ソ連時代にもオリンピック委員会はあったのか?
第一次世界大戦で一度中止された後、大会は1920年に開催された。ロシアはその時には革命が起こっていたが、国際オリンピック委員会(IOC)は、新政権を承認していなかった。そのため、1920年の大会の招待状をロシアに送ることはしなかった。
一方、ソ連はすでに次の「資本主義者の」大会に参加することをボイコットすることにしていたので、招待状が来ても無視した。そして、ソ連のアスリートは労働者と共産主義者たちの委員会たちが開催した独自の国際競技会に参加したのである。
ソ連は第二次世界大戦後に開催されたロンドン大会にも参加しなかった。戦後復興の最中にあったからだ。しかし、ソ連政府は人々が健康的な生活を送れるようになるべくスポーツを推奨した。そして、強いアスリートを育成し、まもなく、国際スポーツ界に進出する方針をとった。1951年にソ連オリンピック委員会が設立され、IOCもこれを承認した。ソ連のアスリートたちは1952年のヘルシンキ大会でめざましい活躍をした。22個の金メダルを獲得し、その数はアメリカと同じであった。
1980年、ソ連はモスクワでオリンピックを開いたが、アメリカはこれをボイコットした。そしてそれに対抗し、ソ連は1984年のロサンゼルス大会に参加しなかった。ソ連がオリンピック委員会設立後参加しなかったのはこの大会だけとなっている。
ソ連崩壊後はどうなったか?
1989年、ソ連という国が姿を消す前に、ロシアは独自の委員会を設立し、ソ連崩壊後の1992年、IOCはソ連のオリンピック委員会の後継組織としてロシアオリンピック委員会を承認した。
2014年、ロシア連邦になって初めてのオリンピックが開かれた。ソチ冬季オリンピックの開催準備については議論を呼び、海外メディアはとても懐疑的であった。とりわけ亜熱帯地方にある都市でウインタースポーツが出来るのかと訝られたのである。しかし、そうした見方に反して、大会は大成功を収めた。
ロシアオリンピック委員会の問題はいつ始まったのか?
2017年、ロシアは大きなドーピング問題に直面した。国家ぐるみでドーピングプログラムを組織、国際的なオリンピック規則を無視したと疑われたのである。IOCのロシア人メンバーは職務を停止されたが、アスリートの大部分がその後行われたドーピング検査にパスしたのを受け、2018年に復職を許された。
2019年、ロシアは別の問題で、世界ドーピング防止機構(WADA)はロシアにすべての国際競技会へのロシアの参加を4年間、禁止した。その後2020年、スポーツ仲裁裁判所はロシアのアスリートが競技会に参加することを認めたが、禁止期間の間はロシアの名の下でなく、ロシアの旗を使わない、またロシア国歌も使用せず、「中立的アスリート」として参加するという条件を課した。
そんなわけで、いま東京オリンピック2020で、世界中が「ROC」の名の下で参加するロシア人アスリートを目にすることになったのである。