クラブハウスが流行する遥か以前、ソ連の若者は自動電話局の機械のバグによって「ミーティング」に参加することができることを発見した。この空間を通し、彼らは話したり、新しい友達を作ったり、一夜限りの関係を持ったりした。
秘密の電話番号
ソ連の固定電話にいわゆる「エーテル」(эфиры)の存在を見つけたのが誰だったのか特定することは難しいが、2つの事実は確かだ。電波空間は1980年代に現れ、そしてそれは機器の故障が原因だった。
エーテルの原理は今流行りのクラブハウスと似ていた。電話ユーザーが特定の使用者のいない番号にかけると、回線が切れる代わりに、同じ番号にすでにかけていた人々が集まる「ルーム」に行き着く。
ここでは初めて知り合う人々が政治から文学、外国製品のソ連での違法販売、セックスまで好きなことを何でも話し合えた。
エーテルにつながる秘密の電話番号は頻繁に変わった。ソ連の固定電話のオペレーションセンターの技術者がそうした抜け穴を見つけては閉鎖していたからだ。その度に(時に同じ会社の職員によって)新しい番号が密かに外部に漏らされ、エーテルに興味を持つユーザーがその番号にかけるのだった。
「私たちにとってこれは不快な現象だったが、他の人々にとっては嬉しい現象だった。バグによって大勢の人がエーテルで話せるようになったからだ」とロシア北西部で電気通信サービスを提供している北西テレコム社のレオニード・トゥフリン地域部長は語る。
エーテルが最も人気を博したのはレニングラード(現サンクトペテルブルク)だったが、ソ連各地の人々にとってこれは絶好の交流の場となった。
文化、密輸、セックス
噂では、ソ連版クラブハウスを最初に発見したのは、ソ連で外国製品を違法に入手して販売していた闇屋(ファルツォフシク)だという。彼らはエーテルを使って安全に仲間と連絡していた。番号は特定の個人のものではないため、逆探知の仕様がないからだ。
*ソ連の闇屋(ファルツォフシク)の秘密の世界についてはこちら
後に、エーテルは話し相手を求める一般市民の間でも人気になった。アプリのクラブハウスと同じく、エーテルは時に特定の話題について語る場となった。
「『ダフ屋』番号はソビエト商業大学や商船学校の学生によって広められた。工科大学や医科大学の学生は『レジャー』番号を持ち、『知能』番号はレニングラード大学やゲルツェン教育大学の学生に共有されていた」と元アナウンサーのアレクサンドル・クズミン氏はティージャーナル(TJournal)のインタビューで語っている。
時に、エーテルの参加者らが「オフライン」のグループミーティングを開いたり、デートを企画したりもした。例えば、あるエーテルで2人の男性が2人の女性と番号を交換し、後で会う約束をする。「女性の名前はマリア(仮名)だと分かった。彼女はダーシャという友達がおり、2人とも会う準備があるということだった。デートにやって来た私たちは、2人ともダーシャではなくマリアが好きだと気付いた。私のクラスメイトは長身でハンサムだったため、女性がどちらを選ぶかは明らかだった。しばらくして、マリアは妊娠し、彼らは結婚した」とかつてエーテルに参加したことのあるゲオルギー・ボガチョフさんは話す。
時に、人々は単に暇だからという理由でエーテルに参加した。「散歩に出ると、私は電話をかけてエーテルに入るのだった。私たちは電話ボックスで雨や風を凌いで時間をつぶした。他に何もすることがなかったからだ」とある女性はエーテルについて回想する。
永久停止
ソ連当局はエーテルを警戒し、技術者は人々がエーテルに参加することを可能にしていた機械のバグをなくしていった。「党委員会から人が来て、こうした通信について私たちに報告した。私たちは番号を特定し、思想上の理由から上に報告しなければならなかった」と1980年に講師として働いていたイリーナ・グリゴルキナさんは話す。
若者たちはエーテルを守る活動を続けたが、固定電話会社はおそらくソ連当局上層部の暗黙の許可を得てエーテルを消し去っていった。
ソ連のエーテルは短命で人気も局所的だったことから、よく言われるほど大規模な現象ではなかったと言う人もいる。
徐々にエーテルの人気は下火となり、消滅した。ソ連の固定電話技術の改良が原因だったかもしれないし、かつてのユーザーの興味が次第に薄れていったことが原因だったかもしれない。
ともあれ、歴史は繰り返すようだ。2021年、クラブハウスはロシアで人気を得始めている。