身長は高くもなく低くもなく、その年齢には似つかわしくないほどほっそりした金髪の女性オリガ・コズロワ(57)は小さな2部屋のアパートで、白いテーブルクロスのかかった木のテーブルの向こう側に座っている。テーブルの隅にはつけっぱなしの小さなテレビが置いてあり、手を伸ばせば届くところにチーズ(ロックフォールだと思われる)とアロマキャンドル、そしてノートパソコンが置いてある。これがわたしの母である。
朝早くから夜遅くまで彼女は保険会社のオフィスで働き、家に帰ると「ゲーム・オブ・スローンズ」を見ている。最新のシーズンはまだ見ていないが、すべてのあらすじとネタバレを読んでしまったため、何か新しいドラマはないかとわたしに助言を求めてきた。
「チェルノブイリはどう?」とわたしはいつでも元気いっぱいの白いハスキー犬ラッキーをチーズに寄ってこないよう追い払いながら、勧めてみる。
「プリピャチでなにも見なかったとでも思っているの?昨日のことのように覚えているわ、事故の後に行ったあの場所をね・・・」。
「え、今なんて?!」
「あんたはいつも何も聞いていないわね。今言った通りよ」。
放射能が拡散されたが、大丈夫
1986年8月。母は列車から降り立ち、鉄道駅「メリトポリ」(モスクワから1,100キロ)のプラットフォームに到着した。そのとき母は24歳、数年前に通信情報大学で技師の資格を取り、モスクワ市通信会社で専門を活かして働いていて、休暇をもらうとアゾフ海へ出かけた。彼女とともに同じプラットフォームにいたのは中年の夫婦と年金生活が近そうな年齢の夫婦、それから今しがたパーマをかけてきたような頭をした背の高い金髪の青年、そして栗色の髪の背の高い30歳くらいの女性がいた。
「わたしはその女の子、イーラとすぐに仲良くなったわ。ウクライナに結婚相手を探しにきたのにカップルばっかりで。青年の方はリョーシャって名前だったんだけど、まだ18歳で、歯科医になるために勉強している子でね」と母は回想した。
スーツケースやリュックサックを持ったグループの方に、白髪で背が高くて優しい感じの50歳くらいの男性が近寄ってくる。オスタプという名前で、母たち観光グループの案内ガイドであった。観光の案内以外に彼が何をしているのかについては、母は興味がなかったらしい。
「彼がわたしたち全員を小さなバスに乗せて、メリトポリ近郊の村に連れて行ってくれてね。そこでわたしたちは地元の人たちが貸している小さな木造の家に寝泊まりしたの。一部屋3人だったけど、安くて、楽しかったわ」と母は続けた。
休暇の最初の1週間は穏やかに過ぎた。ときどきオスタプがウクライナ内のエクスカーションに連れて行ってくれ、夜になるとワインを飲んだり、泳いだりした。ただ、母が不審に思ったことが一つあり、それはビーチのところどころに「16:00から20:00までは水泳禁止」という立て札が立てられていたことだった。
「わたしはオスタプに尋ねてみたの。なぜダメなのですかと。すると彼は“放射能のせいらしいのですが、大丈夫ですよ”と言って笑った。少し不安な気もしたけど、そこまで深刻には受け止めなかったの」と彼女は言う。
危険すぎるエクスカーション
チェルノブイリに行ってみないかというオスタプの提案にグループのメンバーらは、「みんな、準備はいいかい?―はい、キャプテン!」と言って子どものように喜び、なんの躊躇いもなく、同意した。
「もちろん、事故があったことはみんな知っていたわ。でもわたしには放射能は関係ないという確信のようなものがあったのよ。チェルノブイリという言葉もそのときは何か遠くで響いているような感じだったし。ふーん、爆発したんだという感じね」と母は回想する。
メリトポリからプリピャチ(事故があった原子力発電所から3メートルに位置する都市)までは自動車で850キロほどあった。1986年の8月はとりわけ暑くて、気温は30℃を超えていた。母が言うには、グループのメンバーたちは前もってボトルワインを何本も用意して行ったとかで、着くまでの道で記憶に残っているのは食堂で停車したことと「汚染」と書かれた立て札だけだったというのである。彼らは何の防護もなく、夏の洋服を身につけていただけであった。
夜の7時にバスはプリピャチ川のそばの森林地帯で停車した。オスタプは片手にボトルワイン、そしてもう片手にガイガーカウンター(放射線測定器)を持って外に出た。
エクスカーションは2時間ほどで終わった。グループは森を散策し、記念写真を撮った。
「雨は長いこと降っていなかったのに、多くの木や茂みが不自然に色鮮やかで新鮮に見えたわ。あとは遠くの方にもう人が住んでいない建物の屋根が見えただけ」と母はその時の印象を語る。
突然、彼女の腕にハエがとまった。母が言うには、そのハエは手のひら半分くらいの大きさだった。
「突然異変体を見ても驚かないように」とオスタプが冗談めかして言う。みんなは笑って、突然変異の虫を探し始めた。誰かが木の葉っぱを集めようとしたが、それは許されなかった。それ以上、特に面白いこともなかったので、観光客らは街に連れてほしいと頼んだ。
それを聞いて、ガイドはガイガーカウンターを見た。その1秒後、まるで酔いから冷めたように彼は激しい口調で言った。「みんなバスに戻って!エクスカーションは終了!」。皆文句を言いながらも、最後のグループ写真を撮り、タバコを吸うのに少し立ち止まってから、ノロノロとバスに乗り込んだ。
結果
数ヶ月後、もうモスクワに帰っていた母は下腹部に耐えられないほどの痛みを感じた。ちょうどその頃、リョーシャとイーラが彼女に電話してきた。リョーシャは母と同じような痛みに襲われ、イーラは何か衰弱して力が出ず、めまいがすると訴えた。そしてエクスカーションに参加していたもう名前も覚えていない他のメンバーたちも、同じような状況だと言って、助言を求めて電話してきたのだそうだ。
母は言う。「10日間も診断が下されなくてね。最初は盲腸じゃないかと言われたけど、実際は子宮付属器炎だったの」。
一方のアレクセイは本当に盲腸だった。
「しかも彼は歯科医だったから、自分で診断をして、病院に行ったのよ。間違いでなくてよかった」と母はいう。
イリーナはというと、ガンになるかもしれない状態だった。彼女の血液中の白血球の数が増加していることが分かり、すぐに輸血を受けたのだという。そうして3人はなんとか回復した。もっとも母は3ヶ月以上を費やしたわけなのだが。しかしエクスカーションに参加した他のメンバーたちがどうなったのかは分からない。
「妊娠したら良いなんてアドバイスされたのよ。これが一番の予防だからって。信じられる?」と母は言う。
「でも、最近チェルノブイリに行きましたって医者に言ったんでしょ?」とわたしは声を荒げた。自分が生まれたのが、その10年後であることにホッとしながら。
「いいえ、言ってないわ。なぜ言わなきゃいけないの?普通のエクスカーションだったって言ってるじゃない。本当にあんたは何も聞いてないわね。ただ親にエクスカーションに行ったって言ったらものすごく怒られたけどね・・・」。