ヘテロセクシャルな男女間に、真のプラトニックな友情はあり得るのだろうか。この疑問が提起されるたび、データは一つの包括的な要素を指し示しているようである。男性側が、遅かれ早かれすべてを駄目にする。なぜなら我々は、生物学的に究極的には性交渉を欲しているからだ。特定の相手に対する感情のヒエラルヒーにかかわらず。
比較的新しい調査の一つ、2016年にウィスコンシン大学オークレア校の心理学博士エイプリル・ブレスキ=リチェク教授が行った調査では、男性は女友達を「自分が惹かれており、機会があれば追い求める異性の一人」としてしか認識できない運命にあることが示唆されている。一方女性は、男友達を単に「異性の友人の一人」として受け入れやすいという。
これは、ヘテロセクシャルな男女間の友情は、何も新しいものを生み出さないということを意味するのだろうか。筆者はそうは考えない。だが、今日「男」と「女」は生物学的な概念であると同時に、社会の構成要素でもある。筆者の考えでは、このことが現代のロシア人にとって問題となっている。これは、我々が確立した社会的団結を、我々を我々たらしめているものを無視し、その上それを、何も実用的なものを生み出さない不必要な頭痛の種をもたらす恐れのある攻撃に晒すからだ。
ヨーロッパ的な男女間の友情は、ロシアのものより本物らしい?
人生の大部分をフランスで過ごしたロシア人の同僚が最近、彼女の所見を話してくれた。西欧諸国では、ロシアで伝統的に見られるよりも目に見えて高い確率で男女間の友情が成立している。彼女によれば、これは公共の場で特に目立つという。ロシアのカフェに入って目にするのは、男性のみのグループか女性のみのグループ、あるいは夫婦やカップルだけだろう。
一方でフランスでは、より混合的な男女の組合せを見ることができるようだ。確かに、信頼できるデータ(少なくとも継続的な観察)がないことには、この結論を立証することは難しい。とはいえ、共産主義体制が倒れて間もない「男の国」ロシアは、性別による区別を好むと総括することができるだろう。
ここに問題がある。フランス人ら自身は、ほとんど毎日のように、自分たちの国が性差別やセクシャルハラスメントの温床であると訴えている。したがって、公共の噴水のそばに十代の男女のグループがいるのを目にするからと言って、それがよりまともで包括的なものの見方を反映しているとは保証できない。うっとりするようなキスの挨拶に面食らってはいけない。
一方ロシアでは、男性が開放的なオフィスに朝出勤した際にこれが起きる。我々は目が合うと機械的に握手をするが、女性はこの儀式は行わない。女性の握手は奇妙に思えるからだ。ところでこれがOKでないと筆者が知ったのは、もう一人の女性の同僚の話を聞いた時だ。彼女もまた、人生のかなりの時間を、イギリスを含む諸外国で過ごしてきた。イギリスで友人同士が特別な理由もなく握手をする場面を目にすることはまずない(女性は言うまでもない)ため、この同僚には、ロシア男性の例の挨拶が、西欧のプリズムを通してこう見えた。あるグループが別のグループに対して優れていることを示すためのジェスチャー。
排除と抱合という西欧の言語が、どうやら熱帯の嵐のようにロシアに吹き荒れているようだ。
ロシアが、2つの空間が異なるジェンダーのダイナミクスを持つような激しく分裂した国家というわけではない。何らかの形で抱合的なジェスチャーや行為に関わる場合もある。そうして男性のやり方で挨拶しようと女性に手を差し伸べれば、「OK、握手しましょう。でも私は女だから、今あなたは私を変な気分にさせているのよ」という困惑した眼差しを返されるだろう。
したがって礼儀作法と習慣の力は、ロシアでは実際のジェンダー観の正確な指標にはなり得ない。我々が西欧の排他的な力としての「性差別」という概念を受け入れれば、我々は健全でローカル、無害(そう望めば)な性区別を見逃してしまう。ロシアの性区別は、男性ないし女性に機械的な抱合のジェスチャーを強いることなく皆に平等に役に立つ社会的団結のシステムだ。
分断の歴史
我々の持つ文化的なジェンダー観に加え、過去100年余り、ロシアは大規模な社会の転換を経験してきた。この転換はロシアを忘却の淵から救ったが、結果的に現代のロシア社会を細分化してしまった。
我々の十月革命とロシア内戦は、天文学的数字のロシア男性が「防衛者」というほとんど神秘的な価値を背負って戦没していった2つの世界大戦に挟まれて起きた。
ヨシフ・スターリンが君臨した1930年代までに、ロシア経済はさらに再建モードに入った。皆が仕事に就けられた。重要な進展は、ロシアの男性と女性とがさまざまな職種で働くよう促されたことだ。あなたがどこにいて、国のどの期間がその間あなたの子供の世話を手伝っているのか、監督者が毎日毎分単位で把握していた。女性はしばしば貧乏くじを引き、工場で働いた後、家では料理や洗濯をし、母であり妻であらねばならなかった。
ソ連(現在では批判の対象だが)が記録的短期間で立ち直って国民全員を就職させたことを、西側のメディアは大いに称賛したが、我々はまだ市民社会というものを有していなかった。言い換えれば、ロシア人は小作農から種族的共産主義者になったのだ。我々はその喜びのために生きていたのではない。ロシア人は皆自分自身を自分たちにではなく国家に捧げなければならないと分かっていたからだ。それが専制的な仕組みか何かだったわけではなく、それが国民を救う術だったからだ。それが我々の考える「市民社会」だった。
当時ロシアの女性と男性がさまざまな実験に晒されたことも確かだ。1950年代に至るまで学校教育が男女別々だったという事実だけで、現在のあるプロセスは説明がつく(レーニン時代の性教育は言うまでもない)。
しかし、ロシアが女性参政権や今日フェミニストらが言う多くのことを支える女性のブレーンという点で先進的な国だったことを忘れてはならない。ロシアの男性は、ロシアの女性が宇宙飛行士や兵士、大臣になれないなどとは決して思わない。今日でも、国家の上級管理職に就いている女性の数に関して、ロシアは世界をリードする国の一つだ。
ロシアの問題は、我々が厳格な目的に応じて下位団体に分かれる一つの団体として行動するよう教わっていたことだ。
皆さんの中には、「ソ連に性なし」という古い諺を知っている人もいるだろう。半分冗談だが、我々がその目的とどれほど強固に結び付いていたかを物語る言葉でもある。目的第一の言語で考えることが、現代の生活にも無理なく浸透している。
結論
ロシアは、他の国々と同様、女性蔑視や悪質な性差別の問題に直面している。しかしジェンダーに対するグローバル化した見方は、文脈抜きで差異を根絶しようという抗生物質として働き始めている。筆者はその誘惑に抵抗したい。
ロシアにおける男女の友情の認識は、ヨーロッパで問題となっているよりも厄介だ。性区別に多くの説明を必要とするからだ(どの文化も静的でないことは言うまでもない)。
今日我々は、かつてソビエトの生活にあったものの残存物を目にしている。筆者は、この習慣の力もあと20年もすれば消えると考えている。筆者自身や筆者の知る多くの人々が、異性間の友情が非常に上手くいっている例をいくらでも挙げられる以上、種族主義と公共の場での過剰な性区別の存在はほとんど何の意味も成さない。筆者個人も女性の友人がおり、その友人に頼るしかないと分かっているアイデアについて議論する。時には女性として、時には個人として。まさに彼女の女性特有の感性が自分の助けになると期待している時に、どうして彼女を女性として見ないでいられるだろうか。我々は、唯一の違いが生殖器官だけというような同種の集団の一部である必要はない。平等であることは、同質であることを意味しない。違いを潜在的なセックスパートナーとして意識することは、友情への冒涜などではない。我々の文化は、男性として、女性として、互いに提供し合える別々の物事について、正直なだけなのだ。少年少女に無理やりジェンダーを意識させないことは、筆者にとっては、子供が暴力的にならないようにとテレビゲームを禁止することにやや似ているように思える。