すでに10年間、この国はレオニード・ブレジネフが指導してきた。彼が政権の座にあった時期は、「停滞の時代」あるいは「発展した社会主義の時代」として歴史に名を残した。
ソ連建国50周年を記念して、党中央委員会、ソ連最高会議、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の会議が、クレムリン宮殿で開かれた。
アイスホッケーのソ連代表チームが、モスクワでカナダと対戦する。
ホッケーのレジェンド。ソ連代表チームのフォワード(左ウイング)、ワレリー・ハルラモフだ。
民族友好大学の留学生が、ロシアの冬の伝統的な娯楽に興ずる。
1974年、ルーヴル美術館が所蔵するレオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」がまさに奇跡的に、モスクワのプーシキン美術館に送られてきた。この絵画がパリの美術館以外で展示されるのは2回目のことだった。
1974年、映画監督アンドレイ・タルコフスキーが名画『鏡』を撮る。写真は、撮影現場における監督。
同年の映画のもう一つの傑作は、連ドラ『春の十七の瞬間』だ。この映画で、今なおロシアで最も有名な架空のキャラクターの一人、諜報部員スティルリッツが生まれた。
ロシア人はチェス好きの国民だ。モスクワのソコリニキ公園で、男たちがチェスを指す。
1974年夏、アメリカのリチャード・ニクソン大統領がソ連を訪問した。
ニクソン大統領は、レオニード・ブレジネフとモスクワで会い、その後クリミアに向かった。写真はもう何度目かの会見だ。どの会談も、米ソ両国の関係改善に貢献した。もっとも、モスクワ訪問の1か月後にニクソンは、ウォーターゲート事件のため、スキャンダルとともにその職を去った。
1974年のバイカル・アムール鉄道(第2シベリア鉄道とも言う。通称は「バム鉄道」)の建設再開も、画期的な出来事だった。スターリンが発案したこの野心的なプロジェクトは、強制労働収容所の囚人を使役して1930年代に始まったが、戦後に中断されていた。
1970 年代、膨大な数の若者たちが、新しい仕事と生活を求めて、世紀の建設現場へ志願して向かった。
バイカル・アムール鉄道(第2シベリア鉄道)の建設労働者のために、いくつもの集落が造られた。
伝説のバレエダンサー、ミハイル・バリシニコフは、1974年にカナダ公演に出かけたきり、ソ連に戻ることはなかった。ここではまだ彼はレニングラード(現サンクトペテルブルク)の路上で写真家にポーズをとっている。
アメリカのピアニスト、ヴァン・クライバーンはソ連を訪れ、一連のコンサートを行った。1958年にチャイコフスキー国際コンクールで優勝し、まさにここモスクワで世界的な名声を得ていた。
1970 年代にはアングラ・アートも盛んになった。この頃、その悲しい顛末で有名な「ブルドーザー展覧会」がモスクワで開かれた。アヴァンギャルド芸術家の自発的な展覧会は、警察が散水者とブルドーザーを使って解散させた。
展覧会の解散は、激しい社会的反響を呼び、2週間後に当局は、イズマイロヴォ公園で展覧会の正式開催を許可した。
画家たちが野外で、ヴォログダ郊外のパソ・プリルツキー修道院を描く。
1970年代には子供たちもカメラを持っていた。
ウラルの都市ペルミの女性。屋外は氷点下40度だ。
ソ連では原子力エネルギーが盛んに開発されていた。最初の原子力発電所は、すでに10年前に稼働しており、1974年にはもう原発は5か所を超えていた。写真はコラ原発の制御盤。北極圏初の原発だ。
科学の奇跡。レニングラード(現サンクトペテルブルク)の癌研究所で、内臓の放射性同位元素スキャンを行っている。
1974年、ソ連の有人宇宙船「ソユーズ15号」が宇宙に飛び立った。写真は、船長ゲンナジー・サラファノフ(左)と、フライトエンジニアのレフ・デミン。システムの故障により、宇宙船は、宇宙ステーション「サリュート3号」にドッキングできず、飛行を切り上げざるを得なくなった。ソユーズ15号は、世界で初めて夜間着陸を行っている。
しかし、1974年12月の宇宙船「ソユーズ16号」の飛行は、より成功した。この打ち上げは、1975年に行われる米ソ共同の「ソユーズ・アポロ計画」に備えて行われた。写真は、飛行後の宇宙飛行士たち、アナトリー・フィリプチェンコ(左)とニコライ・ルカヴィシニコフ。
スキーヤーたちがドンバイ(北カフカス)のリフトに並ぶ。
モスクワ地下鉄の車両製造の様子。
モスクワの学校の教室にて。
1970年代のファッション。
年配の女性がウラルの小さな駅でジャガイモを売る。