1964年のロシア:ちょうど60年前に何が起きていたか(写真特集)

Viktor Akhlomov/MAMM/MDF/russiainphoto.ru
 フルシチョフの「雪解け」、宇宙飛行、解放感、そして新しい生活への希望。写真技術の急速な発展と普及のおかげで、1964年のこの国が何によって記憶されているのか、目にすることができる。

1960年代はロマンと若者の時代だった。戦場を知らない世代が育ち、人々はもっとソフトになった。

メーデーのデモに参加した、モスクワ大学の喜色満面な学生たち。

ソ連の若者たちは、ギターとテントを持ってハイキングに出かけ、山や森を征服した。 

 スポーツとアクティブなライフスタイルは、ソ連の草創期から児童の体育において最も重要な要素だった。だから、冬にはスキーが学校のカリキュラムに組み込まれる。

 「赤の広場」でも体育パレードが行われた。

1960年代には、とても扱いやすいカメラが大量生産され始めた。だから、カメラを持っている子供もいた。クリミア半島の有名なピオネール(ソ連・共産圏の少年団)・キャンプ「アルテク」で、ピオネールたちは、夏休みをフィルムに記録することができた。

「雪解け」の時期には、写真の美学さえ変化した。厳格なリアリズムはロマンティシズムに取って代わられた。写真は「国の主要な時計」と題されている。クレムリンのスパスカヤ塔にある大時計だ。 

ユーリー・ガガーリンのまさに時代を画す宇宙飛行から3年しか経っていないのに、宇宙と航空は大人気となった。写真は航空学校の生徒たちだ。

子供たちは皆、宇宙に飛ぶことを夢見て、幼稚園でも宇宙飛行士ごっこをしていた。

自動車は依然として非常な贅沢品とみなされていたが、より普及し、より手頃な価格になった。 「Moskvich-408」の広告を見てみよう。

1960年代の重要な現象は、住宅「フルシチョフカ」が大量に建設されたこと。多くの都市で、こうした標準型住宅からなる新区画が現れた。

多数のソ連国民が初めて自分のアパートを手に入れた。たとえ狭くても、人々は、「コムナルカ」(共同アパート)や寮から独立した居住空間に移れて喜んだ。 

暮らしはますます快適になっていった。たとえば、ほぼすべてのアパートには、ソ連製の掃除機「ウラレツ」があった。 

1964年には、何人かの有名な外国人が歴史的なソ連訪問をしている。その一人は、ソ連の偉大な友人、キューバの革命家エルネスト・チェ・ゲバラだ。写真で彼は、ソ連を代表するスター、ユーリー・ガガーリンといっしょにポーズをとっている。

もう一人のスター、マレーネ・ディートリッヒもソ連にやって来た。彼女はモスクワとレニングラード(現サンクトペテルブルク)を訪れて(写真に写っているのは彼女)、一連のコンサートを行った。 

あるコンサートで、聴衆に衝撃を与える出来事が起きた。ディートリッヒは、ソ連の作家コンスタンチン・パウストフスキーの前でひざまずいた。この椿事について詳しくは、こちらをご覧くださいтут。

 作家と詩人はソ連の真のアイドルだった。「60年代人」と呼ばれる、詩人・作家の世代が登場し、国中が愛読した。彼らの朗読、パフォーマンスでスタジアムは満員になった。写真は、この世代の一人、詩人エフゲニー・エフトゥシェンコだ。

宇宙服を着ていないと分かりにくいが、彼女はワレンチナ・テレシコワだ。1年前、彼女は女性として初めて宇宙に飛び、真のスターになった。 

こちらも、ソ連のスター、バレリーナのマイヤ・プリセツカヤだ。ボリショイ劇場の舞台で、バレエ『ドン・キホーテ』のヒロイン、キトリを踊っている。

1964年、シベリア初の原油生産という歴史的な出来事が起きた。僻遠のタイガで油田が開発され、ウスチ=バリクとスルグト間の石油パイプラインが開通した。

北方の僻遠の地、スルグトは魅力的な場所となった。写真はこの都市の空港だ。

広大なロシアで新しい地域、領域の開発が続いた。専門家たちは、その任務により、極めて辺鄙な場所に赴くこともあったが、その際にも、家族全員を引き連れていった。

ソ連の人々は、「明るい未来」を信じ、共産主義が間もなく建設されて世界に正義が実現すると思っていた。都市の路上には、たとえば、「共産主義の建設者の道徳」といった類の大きなポスターがしばしば貼られていた。そこには、公共のために働き、お互いに尊重すべし、などと記されていた。

ソ連の子供たちは皆、嬉々として「ピオネール」に入り、革命の指導者「レーニンおじいさん」の事業に奉仕することを誓った。

ソ連共産党の決定により、1964年10月14日、ニキータ・フルシチョフはその職を去った。 彼は、政治の「雪解け」「非スターリン化」のプロセスを始動させた。写真は、ソ連指導者として最後にレーニン廟の雛壇に立つフルシチョフ。 

フルシチョフの後を継いだのは、レオニード・ブレジネフで、その後18年間にわたり国と党を率いることになる。

ソ連と米国は、激しい冷戦の時期にあった。だから、ソ連にとっては、軍事力の誇示は重要だった。「赤の広場」では毎年(時には2回)軍事パレードが行われていた。

たとえば、1964年には、自走砲と潜水艦のミサイルが披露された。

ソ連は、東京オリンピックでアメリカと“直接対決”した。 

米国は、最終的に総合1位となり、より多くの金メダルを獲得した。しかし、メダルの総数では、ソ連は依然、ライバルを上回っていた。写真は、体操女子ゆかで優勝したラリサ・ラチニナ。

1960年、屋外プール「モスクワ」が、爆破された救世主キリスト大聖堂の跡地に完成した。しかし、その30年後、聖堂を復元するために取り壊されることになる。だから今、プールは写真の中にしか残っていない。

しかし1960年代には、当局は、宗教に対して多少軟化し、国際交流も現れた。たとえば、モスクワ近郊の三位一体大修道院(至聖三者聖セルギイ大修道院)で、「世界教会協議会」の会議が開かれた。 

ネオンサインのある、モスクワの洒落たカフェ。

メランコリックなレニングラード(現サンクトペテルブルク)。

1964年だろうが他の年だろうが、ロシア女性はいつも美しかった。

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