ロシア革命を実行したのはレーニンではない。ではいったい誰だったのか?

歴史
ソフィア・ポリャコワ
 ボリシェヴィキがロシアの政権を奪取しただけでなく、内戦に勝利することができたのもこの人物のおかげだ。にもかかわらずソ連の歴史教科書に彼についての記述がほとんどなかったのはなぜなのだろうか?

 レフ・トロツキーは、ロシア革命に誰よりも献身的に奉仕した一人だ。その波瀾に富む生涯には実にさまざまなことが起こった。流刑に投獄、激しい党内抗争と権力の座、最後には国外追放と死、そして忘却

模範的なボリシェヴィキ

 トロツキーが革命のための活動を始めたのは早かった。17歳(1896年)のときにはすでに革命サークルのメンバーとなり、労働者たちの中に交じってプロパガンダ(政治的宣伝)を行っていた。その後2年間投獄され、シベリアへ流刑、そして国外へ逃亡することとなる。1902年、トロツキーはロンドンでレーニンの知遇を得、他の主要な革命家たちとも知り合った。

 後年、トロツキーの盟友であるルナチャルスキーは次のように回想している「トロツキーはその巧みな弁舌、若者らしからぬ深い教養、自信に満ちた立ち居振る舞いで外国の聴衆を驚かせた。若い頃はあまり真面目に相手にされなかったが、しかしその飛び抜けた弁舌の才は誰もが認めるところだった。間違いなく、「ニワトリの子」ではなく「ワシの子」だと思われていた」。

 以後、トロツキーはその非凡な弁舌の才を革命実現のために使った。機関紙「イスクラ」や「プラヴダ」に活発に論文を発表し、扇動演説をこなした。彼の熱弁はあちこちで引用され、人々に記録された。後に10月革命の際、どちらにつくか揺れていた軍の一部を説き伏せ、ボリシェヴィキの味方に引き込んだのはトロツキーである。

 レーニンの影響力と権威はトロツキーの人気を阻むものだった。「レーニンの棍棒」と呼ばれたトロツキーは、レーニンの意志を実行するに過ぎない存在と思われていた。しかし、時とともにトロツキーは党内で勢力を伸ばし、その権威を高め、時にはレーニンの批判さえするようになった。

武装蜂起のリーダー

 ソビエト政権による10月革命の神話化が功を奏し、現在でも一般大衆のイメージには、装甲車に乗って指揮を執るレーニンの姿がある。しかし、革命が成った瞬間にレーニンはロシアにいなかったのだ。彼はそのとき外国におり、そこから武装蜂起に関する意思決定に参加していたが、直接指揮を執ることはなかった。その役目はトロツキーが担ったのである。1917109日(ユリウス暦)に、クーデターの原動力となる軍事革命委員会の創設を主導したのはトロツキーだ。

 軍事革命委員会創設の意味は、武装蜂起のために革命勢力を結集させること、軍の各部隊に武器を供給すること、首都制圧作戦の指揮を執ること、にあった。武装蜂起を成功させるためには、軍事革命委員会にとって、ペトログラード要塞に配備されていた軍の主要部隊であるペトログラード守備隊を味方に引き入れることが必要不可欠だった。

 トロツキーの見事な扇動によって、ペトログラード守備隊は革命軍側につくことになったのだ。トロツキーが直接指揮を執るペトログラード守備隊が、臨時政府が置かれていた冬宮殿をはじめ、郵便局、鉄道駅、国営銀行、電話局などの戦略目標を占拠する首都制圧作戦が計画され、1025日(グレゴリオ暦では117日)、実行に移された。

 「もし、1917年に私がペテログラードにいなくても、レーニンの参加と指揮の下で10月革命は実現しただろう。だがもし、ペテログラードにレーニンも私もいなかったら、10月革命そのものがなかったはずだ」と、後にトロツキーは回想している。

 レーニンがスモリニィ宮殿のボリシェヴィキ司令部に到着したのは、すでに全てが終わった後だった。1025日の夜、冬宮殿が占拠され臨時政府が打倒されるとすぐに、ソビエト大会(評議会)が開かれ、新政権樹立に関する重要な決定がなされた。レーニンはトロツキーに新しい権力機関である人民委員会議の議長に就くよう提案したが、トロツキーはこれを断り、レーニンに最高位を譲ると、外務人民委員に就任した。

転落

 新ロシア初の外務大臣としてトロツキーは、帝政ロシアが結んだ秘密条約を明るみに出すことに成功した(旧体制からの官僚たちはこれを阻止すべく妨害したが)。しかし、第一次世界大戦におけるロシアに有利な講和条約を資本主義列強と締結すること、そしてボリシェヴィキ政権を諸外国に認めさせることはできなかった。レーニンの命によりドイツと締結され、ロシアを戦線から離脱させたブレスト=リトフスク条約にトロツキーは反対だった。トロツキーは外務人民委員の職を辞し、軍事人民委員に任命された。

 彼の指導のもと、混乱していた赤軍は機能的に組織された軍隊となり、内戦の戦況を一変させた。トロツキーのやり方は、はなはだ非人道的なものであった。たとえば、ある連隊は前線から退却した咎で、連隊長のみならず、兵士の10人に一人が処刑された。

 「厳罰なしに軍隊は作れない。指揮権に死刑が含まれていなければ、人々を死地に送ることはできない」と、後にトロツキー自ら記している。戦時や不安定な状況下ではトロツキーの軍の統率の仕方も正当化されるものだったことは、党の同志たちも認めるところだったであろうが、平時の政治においてその過激性は以前からの盟友たちさえも脅威を感じるものだった。そんなトロツキーにとって状況を深刻化させたのは、レーニンの病気だった。レーニンの意見は絶対的なものであり、彼はトロツキーを高く評価していた。しかし、絶対的な指導者の余命が長くないことは誰の目にも明らかだった。

 党内ではスターリンとトロツキーが権力の座を巡って激しい闘争を繰り広げていた。書記長であったスターリンは、党内の主要なポストに必要な人物をつけることに成功した。間もなくスターリンの周囲には、彼のどんな決定も支持する巨大な「同盟」が形成され、トロツキー派の面々は地位を追われることとなった。トロツキーはこの闘争に負けた。過去の失敗を咎められ、公に名指しで非難されたうえに、党の方針に反していると糾弾された。1927年、レーニンの無二の盟友であり、10月革命の指導者であるトロツキーは党から除名処分を受け、1929年には国外追放となった。

 スターリンによりトロツキーのすべての革命の功績が忘れ去られただけでなく、「人民の敵」と成り果て、「トロツキスト」は危険なレッテルとなった。トロツキズムは投獄や銃殺に値する罪だった。

 1940年、当時メキシコに滞在していたトロツキーは所在を突きとめられ、スターリンの命を受けたソ連諜報部員によってアイスピッケルで頭を殴られ殺された。