レーニンが「プラヴダ」を読んでいる。
Getty Images「プラヴダ」(真実)は、ボリシェヴィキ党によって発行されたいくつかの新聞のうちの一つで、1912年に登場したが、間もなく同党の主要なメディアにして宣伝ツールとなった。
「プラヴダ」新聞第一号。1912年5月5日。
Archive photoプラウダ紙は、労働者による、労働者のための新聞という立場をとった。その記者、職員、配布者のなかにも労働者がいた。
1913年、サンクトペテルブルク。「プラヴダ」新聞の印刷。
TASSプラウダ紙は、ロシア帝国における労働運動の「ボリシェヴィキ化」において大きな役割を果たした。同紙は、全国の労働者が置かれた厳しい条件、彼らの直面する問題と希望について詳しく伝えた。また同紙は、プロレタリアートに対し、合法的または非合法な手段によって、既存の体制に抗して立ち上がるよう呼びかけた。
プラウダ紙のこうした「編集方針」を、政府は見逃せなかった。同紙は何度か、一時的に発行停止処分に遭った。そしてついに、第一次世界大戦の前夜に発禁となり、スタッフは逮捕された。
ロシア帝国。「プラヴダ」新聞の配布者たち。(右:「プラヴダ」の基金の募金リスト。
TASS1917年のボリシェヴィキ革命(十月革命)の後、プラヴダは、この国の主要な新聞となった。同紙の最重要な優先課題は、人々を動員して、当時進行中であった内戦で白軍と戦わせること、そしてその他の反共活動と闘争させることだった。
ペトログラードの住民たちがボリシェヴキが宮殿広場で主催したミーティングで「プラヴダ」新聞を売っている。
Sputnikプラウダ紙に載ったスローガン「プロレタリアートよ、お前の馬に乗れ!」は、非常な人気を博し、内戦終結後もずっと、パーティーの最後の乾杯や、旅立ちの前の乾杯の辞として使われた。
効果的な宣伝手段としてプラヴダ紙は、1920年代から30年代にかけて何百万もの人々を動員し、ソ連の農業と産業の可能性を顕在化させようとした。
雑誌と新聞の配達。
アナトリー・ガラニン撮影/Sputnikプラヴダ紙に登場したいくつかのスローガンは、時代を象徴するものとなった。例えば、「幸せな幼年時代を過ごさせてくれてありがとう、同志スターリン!」や「祖国のために!スターリンのために!」
第二次世界大戦中にナチス・ドイツは、プラヴダ紙の反共バージョンを制作し、占領地に配布した。 そして一面には、有名なソ連のスローガンのナチス版を載せた。「万国の労働者よ、ボリシェヴィキとの闘争のために団結せよ!」
大祖国戦争、1941-1945。レニングラード戦線、1942年。赤軍の軍人たちが「プラヴダ」新聞を読んでいる。
ボリス・クドヤロフ撮影/Sputnik1970年代は、プラヴダ紙の黄金時代だった。ソ連各地の40以上の都市で毎日発行され、総部数は1060万部。同紙の編集部は毎日、読者から1300通を超える手紙を受け取った。
モスクワの住民たちが「プラヴダ」の最新号を読んでいる。1976年。
ヴィクトル・コシェヴォイ撮影/TASS南極大陸の沿岸の一部は、プラウダ紙にちなんで「プラウダ海岸」と名付けられた。今日そこでは、ロシアの基地「ミールヌイ(平和)」が活動している。
1976年、モスクワ。「プラヴダ」の印刷。
ボリス・カヴァシキン、ヴァレリー・フリストフォロフ撮影/TASS1991年のソ連崩壊の後、プラヴダ紙はその影響と力をすべて失ったが、ロシア共産党の主要な新聞として今日でもまだ発行されている。週3回の発行で、部数は10万。だが、かつての栄光の淡い影にすぎない。
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