正教会とカトリック教会の分裂に関する5つの事実

モスクワ総主教キリル1世(左)とローマ教皇フランシスコ (右)

モスクワ総主教キリル1世(左)とローマ教皇フランシスコ (右)

Maurix/Gamma-Rapho via Getty Images
 東西のキリスト教会の分裂が起きてから、ほぼ千年が経過した。分裂の理由は何だったのか?

 東西教会の分裂(大シスマ)の正式な年は 1054 年だ。しかし、ローマ教皇が率いる西方キリスト教会と、コンスタンティノープル総主教率いる東方キリスト教会との差異は、それ以前から生じていた。当時、キリスト教会は、パレスチナ、ローマ(およびヨーロッパのほぼ全域)、ギリシャ、ビザンツ(東ローマ帝国)だけでなく、アルメニア、グルジア(ジョージア)、エジプト、シリア、さらには古代ロシアにも存在していた。それらが様々な面で大いに異なっていたことは容易に想像できよう。 

 東洋と西洋は、文化、伝統(さらには気候)の点で違いが甚だしく、世界観と生活様式もまったく異なっており、お互いを理解していなかった。それは結局、激しい対立をもたらし、東西教会は相互にアナテマ(破門)し合った。その解消はようやく1965年のことだ。

 明らかに、東西教会の見解の違いには、深い精神的およびイデオロギー的要因がある。そして、神学者、宗教学者は、いまだにその解明にいそしんでいる。しかし、ここでは、目に見える表面上の相違について話そう。

1. ローマ帝国の分裂が一要因

 なぜキリスト教会は東西に分裂したのか?これは、ローマ帝国そのものの分割によっても促された。4 世紀初め、コンスタンティヌス 1 世は、キリスト教徒への迫害をやめ、公に信仰することを許可した。彼はまた、最初の全教会規模の公会議(第1ニカイア公会議)を招集した。この会議以降、ニカイア派(アタナシウス派)が正統となっていく。そして、「父なる神」と「子なる神」は同質(同一本質)であるとされ、これが、三位一体論の形成に寄与していく。

 ローマを攻撃した「蛮族」を退けたコンスタンティヌスは、コンスタンティノープルを建設した。コンスタンティヌスの子孫は、内部の権力闘争と外敵の圧迫の結果、単一の帝国を西側(ローマが中心)と東側(コンスタンティノープルが首都)に分割した。

 その後、ビザンツには独自の司教(主教)が現れたが、それでも教皇に従っていた。しかし、5 世紀にはすでに、ビザンツの司教は、「全地総主教」の称号を帯びていた。彼はまだ教皇の優位性を認識していたが、それでも自分は独立しているとみなしていた。

2. 教皇が教会の「頭」の地位を主張

 ローマ教皇は、自らをキリスト教会全体に権力を有する最高の階層とみなしていた。第一に、ローマ帝国のかつての首都ローマの優位性のために、第二に、最初の教皇、使徒ペテロの衣鉢を直接継ぐ者としてだ。

 しかし、ローマは、その「頭」としての優位性を、「等しき者たちのなかの第一の者」と認識していたわけではなく、単一の「中央統治機関」となることを望んでいた。これには、ビザンツだけでなく、他の東方教会、つまりアンティオキア、エルサレム、アレクサンドリアも、根本的に不同意だった。

 これらの東方教会は、ビザンツの「全地総主教」を認めたが、教皇を教会全体の唯一の長として認めたくはなかった。

 たとえば、言い伝えによると、アレクサンドリア教会は使徒マルコによって創設されたとされ(*教父・歴史家エウセビオスの『教会史』による)、その影響力はエジプト全土に及んだ。そして、この教会の長は、教皇と総主教の両方の称号を有していた(そして、しばしばローマとコンスタンティノープルの論争の仲介者として行動した)。

3. 聖霊と聖餐のパンに関する論争

 最初に現れ、しかも今日まで残る主要な神学上の対立の 1 つは、三位一体に関するものだ。聖アウグスティヌスは、北アフリカの教父であり司教だが、「フィリオクェ」と呼ばれる教義を発展させた。「フィリオクェ」はラテン語で、「また子より」を意味し、この教義は、聖霊が父なる神のみならず、子なる神からも出るということだ。

 この教義は、西方教会では採用されたが、東方教会には受け入れられなかった。東方教会によれば、より古い見解が『新約聖書』に記されており、聖霊は父からのみ発する(子もまた父から発する)。

 したがって、東方教会は、「フィリオクェ」において『新約聖書』の歪曲と聖霊の役割の軽視を見た。そして、「正教会」は、自らをより忠実な教えだと考えた。ちなみに、「オーソドックス」は、ギリシャ語の「オルソドクシア」、すなわち「正しい教え」に由来する。

 11 世紀初めにローマが「フィリオクェ」を公式の教義に採用したことは、分裂の最も重要な理由の 1 つと考えられている。

 さらに、典礼(正教の「奉神礼」に相当)に関しても、さまざまな論争が東西教会の間で生じた。たとえば、最も重要な典礼である聖餐にどんなパンを用いるかだ。

 東方教会は、酵母入りの発酵パンを用いる。これは「レビ記」7章13に基づく。「奉納者はこの和解と感謝の献げ物のほかに、更に酵母を入れて作った輪形のパンをささげる。」。このパンを指すギリシャ語「プロスフォラ」は「提供する」という意味だ。

 ローマ・カトリック教会では、いわゆる種なしパン(無発酵パン)が聖体拝領のパンとして用いられる。「出エジプト記」12章15にこうある。「七日の間、あなたたちは酵母を入れないパンを食べる。まず、祭りの最初の日に家から酵母を取り除く。この日から第七日までの間に酵母入りのパンを食べた者は、すべてイスラエルから断たれる。」

4. 領土争いと「大シスマ」

 実際のところ、キリスト教会が完全に一致していたことはない(より正しくは、ごく初期をのぞけば)。あらゆる公会議と教会統一の試みにもかかわらず、ローマとビザンツの聖職者の意見の相違と対立は収まらなかった。

 東方では、公会議で採択された教義が信奉されていたが、ローマは、ドイツ人、フランク人などから、多種多様な新しい影響を受けていた。たとえば、ノルマン人は、コンスタンティノープルの影響下にあった南イタリアの一部を征服した。そして彼らは、ギリシャ風の儀式をラテン風に置き換えた。

 これに対して、コンスタンティノープル総主教ミハイル1世キルラリオスは、「ラテン風の」教会を閉鎖した。彼はまた、教皇が総主教を対等だと認めることを望んだ。

 1054 年、教皇レオ 9 世はこれを拒み、事態を打開するために使節をコンスタンティノープルに送った。その際に教皇は、使節に偽文書まで託していたという。そこには、コンスタンティヌス帝自身が、キリスト教会全体に対する単一の権力を教皇に委ねたとあった(また教皇は、ノルマン人との戦いにおいてビザンツの軍事援助も当てにしていた)。

 総主教は、文書の偽造に気づき、教皇の要請を拒否した。これを受けて、教皇の特使は、総主教を破門し、一方、総主教も、使節を破門した…。

5. 古代ロシアは東方教会を選択

 キリスト教に改宗した古代ロシア(キエフ大公国)の最初の支配者はオリガ大公妃だ。そして、彼女の孫であるウラジーミル1世は、988年に大公国全土をキリスト教に改宗させた。年代記には、彼がいかに宗教を選んだか、さまざまな宗教の使節がいかに彼のところにやって来て、彼らの神を選ぶよう説得したかを詳しく説明している。

 ローマ教皇の使節やコンスタンティノープルの「ギリシャの哲学者」も来訪した。ウラジーミルは、東方教会の豪華絢爛な典礼を好んだとされている。

 しかし実際には、ウラジーミルは、教皇個人がほしいままにする勢力に組み込まれたくなかったのだろう。一方、キエフ大公国は、ビザンツと長年、さまざまな商業的、政治的関係を築いてきた。だから、ビザンツのキリスト教を選ぶ方が得策だった。

 988 年、ウラジーミルは、ビザンツのケルソン(現在のクリミア半島ケルソネソス)を占領。彼は、和平と引き換えに、皇帝の妹であるアンナ皇女を自分に嫁がせることを要求した。

 ウラジーミルのコンスタンティノープル侵攻の脅威にさらされていた皇帝は同意したが、ウラジーミルのキリスト教への改宗を条件とした。どうやら、皇帝は、こういう形で、すでにビザンツを再三攻撃してきた隣人を「飼いならせる」と気づいたらしい。皇女アンナと共に、ビザンツの聖職者、司祭らがやって来て、大公国の人々をキリスト教に改宗させ、読み書きを広め、神の律法を教え始めた。

 1054年の東西教会の分裂(大シスマ)の時点では、キエフ大公国は、コンスタンティノープル総主教から独立してはおらず、スラヴ人の主教もいなかった。主教はすべて、ビザンツから派遣されたギリシャ人だった。したがって、若きロシアの正教会は、依然としてビザンツに大きく依存しており、その後も、ビザンツの路線に沿って進んでいくことになる。

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