ロマノフ家はクリスマスにどんなプレゼントをしていたのか

Russia Beyond (Boissonnas & Eggler, 1913 / Public Domain; DNY59 / Getty Images)
 装飾品や本、美しい食器や甘いお菓子、服や家具に至るまで、およそツァーリの一族がその家族にプレゼントしたことのないものはなかった。彼らは贈り物の流行を作った存在そのものだったのである。

 今日のロシアにおいて、モミの木を飾りプレゼントを贈る一年の代表的な祝日といえば、クリスマスではなく新年である。これはキリスト教式のクリスマスを祝うことを廃止したソ連政府のせいであるが、そのかわり新年の祝いが盛大に行われるようになった

 しかし革命前までのロシアではキリストの生誕祭は人々に愛されるものであり、喜んで祝われたものである。しかも、現在ではロシア正教は1月7日をクリスマスとして祝っているが、1918年までは他のキリスト教徒と同じく12月25日であった。ツァーリの一族にとってもこの日は特別なもので、子どもたちや家族への贈り物にお金を惜しむことなどまったくなかった。

子どもたちへのプレゼント

 16世紀から17世紀にかけて、ツァーリたちはこの教会の祝日に重きをおいていたが、特別な家族の祝日という性格は帯びていなかった。クリスマスイブには皇帝は慈善活動をしていたのである。病院や養護施設に多くの施し物を配って回り、刑務所を訪問して恩赦を与えたりしていた。その後きまって教会で行われるクリスマスの夜の礼拝に参加した。この礼拝こそが最も大切なものだったのである。

 礼拝が終わった朝にはクレムリンのツァーリの居室に高位聖職者たちと賛美歌隊が招待され、キリストとツァーリを讃える特別な聖歌の合唱が行われた。ツァーリは彼らに特別な祝祭の「蜜酒」を振る舞い、高価な「コフシュ」(口の広い水差しのような器)を与えた。

 その後ようやくツァーリの子どもたちはプレゼントをもらうことができた。たとえば、模様が刺繍された高価な布(絹や錦)や宝石が散りばめられた貴重な坏などだ。また、皇子たちにはおもちゃのサーベル、皇女たちにはさまざまな装飾品も贈られた。

 祝日に贈り物を渡すのは、19世紀までは名門の裕福な家庭だけの習慣だった。 

初めてのクリスマスツリーの下のプレゼント 

 クリスマスにモミの木を飾る伝統も長い間ロシアには存在しなかった。それどころかモミの木は死者を連想させるものだった。葬送の際、墓地の道に針葉樹の枝を撒き、死者の魂に行き先を示すための象徴として使われていたからだ。

 初めて家庭でモミの木を飾ることを命じたのはピョートル1世であり、1770年に新年を国の祝日としたときだった。ドイツ人のエカテリーナ2世もこの新年の伝統を奨励した。 

 初めてクリスマスにモミの木が飾られたのはクレムリンであり、1817年のことだった。1820年代からこの伝統はサンクトペテルブルクの皇帝の宮殿に定着し、ニコライ1世の時代にクリスマスツリーの下にプレゼントを置くようになった。

 このような、ツリーにプレゼントという家庭的なクリスマスのお祝いを皇帝一家に持ち込んだのは、ニコライ1世の妻であるアレクサンドラ・フョ―ドロヴナだと考えられている。彼女はプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世の娘でドイツ人であり、プロイセンの彼女の家族ではクリスマスはいつも華やかなツリーを飾ってプレゼントを贈り、盛大に祝われていた。

ニコライ1世の妻アレクサンドラ・フョードラヴナ

 「ニコライ1世の治世においてキリストの生誕祭は貴族の間で、後に市民の間でも、家族の祝日という性格を帯びるようになりました。人々は時間もお金も惜しまずに、入念に準備をしていました」とユリヤ・ウワロワはその著書「19世紀から20世紀にかけてのロシアにおけるクリスマスと新年」に書いている。

 プレゼントはときにツリーの下に収まりきらないほどたくさんあった。1847年、ニコライの息子であるコンスタンチン大公は自身の日記に手に入れた多くのプレゼントを列記している。サーベルに短剣、鎖かたびらやチェルケス銃、本などである。

クリスマスツリーが置かれた冬宮殿内の円屋根の広間。エドゥアルト・ハウ作

 ニコライ1世の娘であるオリガは、回想の中で1837年に書き物机と椅子のセットをもらったこと、1843年には「ヴィルト社(Wirth)のすばらしいグランドピアノ、絵画、美しいドレス、そしてパパからはサファイアのブレスレットをもらった。これはパパのお気に入りの宝石」と記している。

 皇帝が好んでプレゼントを注文した店のひとつにサンクトペテルブルクにあったニコリス&プリンク社の「英国ショップ」がある。優雅なシャンデリアや宝石、高価な美しい武器やコレクションワインなどその他さまざまなものを取り扱っていた。

 写真のティーセットはこのショップのものであり、1839年にニコライのもうひとりの娘マリヤに贈られたものだ。1850年には、皇帝は彼女に豪華なソファや肘掛け椅子、飾り棚といった家具一式もプレゼントしている。

ニコリス&プリンク社のティー・コーヒーセット、1839年

 皇女たちには絵画や装飾品、宝石に美しいドレス、小物(たとえば仕掛け時計のようなもの)といったものだけではなく、スケート靴、スキー、橇、本などの多様な必要品もプレゼントされた。

 子どもたちは「ウィッシュリスト」を作ってプレゼントに何が欲しいのか伝えることもできた。アレクサンドル3世の弟であるウラジーミルは、子どもながらにクリスマスのプレゼントとして大好きだった牡蠣を頼んだことが知られている。独創的なのは皇太子だったアレクサンドル自身で、彼はミニチュアのキッチンと煙突清掃人の制服を頼んだ。 

 1883年、アレクサンドル3世は帝国磁器工場に祝典用として50人分のラファエロ磁器の食器セットを注文した。この注文に応えるために20年の歳月が費やされ、毎年ちょうどクリスマスに工場から完成したものが少しずつ送られてきた。

ラファエロ磁器の皿、魚卵用の小皿、ティーカップセット

男性のための「軍の」プレゼント

 帝室の男性のための伝統的なプレゼントは軍に関係のある物だった。皇位継承者であるアレクサンドル大公(将来のアレクサンドル2世)に、皇后である母から、ある年は近衛騎兵連隊の制服、ある年はトルコサーベル、またある年はロシア軍のさまざまな兵科が描かれた磁器製の皿をプレゼントされていた。もっとも彼女は息子にティーセットも贈っているが。また皇帝である父からは、ケース付きの銃やピョートル大帝の胸像、ロシアの歴史の本などをもらっていた。 

 1803年にオスマン帝国で製造されたこの鞘付きのヤタガン(トルコなどの、少し反りのある大型短剣)は、1849年のクリスマスに将来のアレクサンドル2世に妻のマリヤ・アレクサンドラヴナが贈ったものである。

鞘付きのヤタガン、トルコ、1803年

 1881年、皇帝アレクサンドル3世に妻が弾丸付きのスミス&ウェッソン製レボルバーとホルスターをプレゼントしたことが知られている。

 甘いお菓子はふつう子どもだけにプレゼントされたが、大人も箱詰めの高価なプルーンやドライアプリコット 、蜜柑などの当時珍しい甘味をもらうことがあった。

皇帝アレクサンドル3世の娘、オリガ大公女の水彩画

宮廷の宝くじ

 皇帝一家はクリスマスにかならず廷臣たちのために宝くじを催した。景品として磁器製のランプや花瓶、ティーセットなどが用意され、中にはファベルジェ製の細工さえあった。この宝くじの催しを皇帝の子女たちも手伝い、準備として長い時間をかけて景品に番号札を貼っていた。 

 また皇帝の家族はこの祝日にきまって大勢の使用人やその他宮廷で働くさまざまな者たちにプレゼントをした。しかもそれはかなり気前のよいものであった。家庭教師は高価な小箱や銀製の食器セットをもらうこともあったし、真珠やさまざまな「小物」をプレゼントされることもあった。

ニコライ2世の最後のクリスマス

宮廷使用人の子女のためのクリスマスツリー

 ニコライ2世は驚くほど慎ましくクリスマスを祝った。とりわけ20世紀初頭の革命や戦争といった国内が厳しい時期にはなおさらだった… 

 皇帝一家が住んでいたツァールスコエ・セローの宮殿では3本のクリスマスツリーが飾られた。子どもたちと使用人たちのためにそれぞれ別に1本ずつ用意されたのである。ニコライ2世は自身の日記にクリスマスについてのメモを残している。そこには、多くの人々が集まった騒々しいお祝いの後、皇帝と皇后はいつも自分たちだけでクリスマスを祝ったと書かれていた。「すべてが終わった後、アリクス(ニコライの妻、アレクサンドラ・フョードロヴナ)の部屋でわたしたち2人だけのお祝いをした」と。
ニコライ2世とその家族、1913年

 復活祭には毎年、妻にファベルジェのイースターエッグを贈っていたニコライだが、クリスマスのプレゼントはより慎ましいものだった。彼がクリスマスに妻に宝石を贈ったのはニ度だけで、結婚の年にダイヤモンドの首飾りを、第一子である皇女のオリガが誕生した年に軟玉のペンダントをプレゼントしている。 

 最後の皇帝夫妻は子どもたちへのプレゼントもささやかなものだった。皇位継承者であるアレクセイには母親から日記が贈られた。

 1917年のクリスマスには流刑の地シベリアで皇后アレクサンドラ自ら子どもたちに毛糸のチョッキを編んだ。自身の女官であり友人でもあるアンナ・ヴィルボヴァには自ら編んだマフラーとストッキングを小包で送った(そこにアレクサンドラは小麦粉、パスタ、ソーセージも入れた。これらの品は革命後のロシアではまさに贅沢品だったのだ)。

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