ピョートル大帝はなぜ死後6年間も埋葬されなかったのか?

歴史
エカテリーナ・シネリシチコワ
 ロシアのツァーリは、恐ろしい苦痛のなかで死んでいき、遺言を残す暇もなかったが、実は、彼は何年もの間、自分の葬式の準備をしてきた。しかし、何かが計画どおりに進まず、彼の遺体は6年間埋葬されずに棺に横たわっていた。ずっと何を待っていたのか?そして、「ツァーリの魔術師」は、それと何の関係があったのか?

 1724 年末、すでに尿路結石症を重く患っていたピョートル1世(大帝)は、ラドガ運河の建設現場に赴いた。運河は、ラドガ湖に沿って100キロ以上も伸びていた。宮廷医は、ツァーリにこの旅行を思いとどまるよう進言したが、彼は断固退けた。このプロジェクトは重要であり、運河はヨーロッパとの貿易量を大幅に増加させるはずだった。ましてや、秋にはツァーリの体調が良くなったように思われたのでなおさらだった。

 だが、時間はそれが致命的な誤りだったことを示した。

ヨーロッパの王たちのような葬式を

 もう寒い季節に、しかも悪天候のなかを航海したことで(おまけに、ラフタ地区〈サンクトペテルブルクのフィンランド湾岸〉では、ピョートル大帝は、冷たい水のなかに腰まで浸かって、兵士を乗せて座礁した船を救助しなければならなかった)、病気が急激に重くなった。間もなく52歳のツァーリは病の床に就いた。彼の病状は極めて速やかに悪化したため、遺言を残す暇もなかった。その場に立ち会った者たちによると、彼は「すべてを与えよ…」と口にしただけで、意識を失ったという。

 ピョートル大帝は、1725 年 2 月 8 日に冬宮の執務室で亡くなった。長身の彼の遺体は、216 cm の棺にやっとのことで押し込まれた。しかし、死は突然ではあったが、ピョートルは生涯を通じて自分の葬式の準備をしてきた。

 これを実行するために、彼は、ロシアの皇室の葬式の規則を変更し、彼自身が新しい儀式に従って埋葬された最初のロシアの君主となった。

 ロシアの多くの古い伝統に反対していたピョートルは、モスクワ大公国のツァーリたちのように、死の翌日に埋葬されることを望まなかった。彼は、欧州の王たちのように長く荘重な告別を欲していた。

  そして彼は、それを実地でも学んだ。彼は、ロシアに仕えていた外国人貴族の葬式にかたはしから出席しようとし、そして実際に、葬儀の組織・実行に、その金銭面も含めて参加した。

 このほか、1723年に彼は、ロシアの外交官たちに、彼らが出席した葬式の詳細を海外から自分に報告するよう命じた。明らかに彼は、何よりもフランス王を範として、自分用に準備しつつあった葬式を「リハーサル」していた。

 だから、ピョートルの「その時」が至ると、彼の葬式についての詳細な指示はすでに用意されていた。空前の規模の葬儀だった。

ピョートルはいかに葬られたか

 ピョートルの告別は、冬宮で執り行われた。皇帝の亡骸は、厳粛に装飾された冬宮の「嘆きの間」に安置された。このホールは、内側が黒布で覆われ、200平方メートルもの広さがあった。棺の周りには、国家のシンボル、レガリア、そして皇帝の勲章が置かれていた。木製の彫刻もホールに配置されていた。しかし、ロシアのイコンがまったくなく、これは当時としては極めて珍しかった。

 こうして、彼の亡骸は、彼のレガリアと、ツァーリに別れを告げたい群衆とに囲まれて、42日間冬宮殿にとどまった。埋葬地への葬送は、ようやく3月10日に行われた。遺体は、冬宮からネヴァ川の氷上を通り、ペトロパヴロフスク大聖堂に運ばれた。名誉ある警護兵1万1千人が付き従った。 

 告別式が大聖堂で行われたものの、埋葬はされなかった。象徴的に一握りの土が棺の蓋に振りかけられただけで、6年間、埋葬されぬまま、そこに安置されていた。

 この間に彼の妻も亡くなった。夫の死後に即位し、その3年後に逝去したエカチェリーナ1世だ。彼女の棺もまた、土に埋葬するキリスト教の伝統に反して、夫の棺の隣に、埋葬されぬまま置かれた。

 当然のことながら、これほど長い告別(宮殿での42日間)は、防腐処理を前提とした。これが、ピョートルが変更したもう 1 つの規則だ。彼以前は、ロシアのツァーリは防腐処置を施されなかった。彼はこの防腐処理の「リハーサル」を、彼の最愛の妹、ナターリア・アレクセーエヴナの亡骸に対して行った。

 ナターリア・アレクセーエヴナが1716年に42歳の若さで亡くなったとき、兄は外国にいた。彼は、愛する妹に別れを告げるため、その遺体に防腐処理を施すよう命じた。そして、この防腐処理は成功した。ところが、ピョートル自身が防腐処理されたとき、同じ技術が用いられたのに、それは計画通りにいかなかった。

 それというのも、ツァーリの遺体は解剖されない慣わしだったからだ。そのため、ピョートルも、解剖なしで防腐処理された。ところが、彼は膀胱の化膿性炎症で死亡したため、彼の体は黒ずみ、早くも死後10日で腐敗し始める。

 にもかかわらず、妻エカチェリーナは、42日間の告別を含め、夫が言い残したすべての条件に従うことにした。ピョートルの防腐処理を担当したのは、ピョートル1世の側近で友人のヤコフ・ブリュースだ。彼は、当代最高の教養人の1人であり、民衆の間では、「魔法使い」とか「ツァーリの魔術師」などと言われていた。ピョートル1世を長期間埋葬しない決定に関係していたと目されていたのはまさに彼だ。

「ツァーリの魔術師」にしてスコットランド王の末裔  

 ブリュース家は、スコットランドの最も由緒ある名門の1 つで、ヤコフ自身は、1647 年からロシアに住んでいた。彼の祖先のなかには、ロバート1世(スコットランドの「解放王」、ロバート・ブルース、1274~1329年)もいる。

 ヤコフ・ブリュースは、常にピョートルとともにいた。ピョートルが若い頃、政敵およびその仲間から、三位一体修道院の中に身を隠したときでさえも。以来、ブリュースはツァーリから離れることはなく、側近中の側近となる。

 ヤコフ・ブリュースは、学校、大学では学ばなかったが、生涯を通じて熱心に独学し、約1500冊の自然科学関連の蔵書を集めていた。6つの言語に堪能で、数学、地理、地質学、天文学、光学、機械、医学、軍事、その他の分野に精通していた。また彼は、ロシア語の印刷を担当し、ロシア語・オランダ語、オランダ語・ロシア語の辞書を編纂し、ロシア最初の幾何学の教科書を編集し、これまたロシア初の天文台を開設している。

 まさにこの最後の事実が、明らかに、「魔法使い」や「ツァーリの魔術師」などというブリュースの評判を大いに助長した。彼が開設した天文台は、モスクワのスハレフ塔(1934 年に破壊、撤去された)にあった。モスクワの言い伝えでは、この場所は暗い伝説に包まれていた。ここに集まるのは、異端者どもの秘密結社で、ブリュースの「黒魔術の本」は塔のふもとに隠されていて、彼に無限の力を与える、云々…。民衆の風説では、彼は、不老不死の秘薬や生きた人形を製造し、機械の鳥に乗って飛行するなどとも言われていた。

 ピョートル1世が死去したとき、ヤコフ・ブリュースは、葬儀委員会、いわゆる「悲しみの委員会」の「委員長」の称号を授けられた(この委員会が告別式と葬送を組織した)。彼は、ツァーリの防腐処理も行った。

 しかし、埋葬されなかったことが、ブリュースの「神秘的な活動」と「悪魔の所業」に結び付けられ始める。そして時が経てば経つほど、「ツァーリの魔術師」がすべてを操っているという確信が民衆の意識に根付いていった。

 だが、真相ははるかに月並みなものだった。

ツァーリの霊廟 

 実は、棺を埋葬する葬式最後の行事が延期されたのは、霊廟およびペトロパヴロフスク大聖堂そのものの竣工を待っていたからだ。この聖堂は、ペトロパヴロフスク要塞のなかにあり、亡きツァーリたちのための特別な場所だ。要塞の着工日である 1703 年 5 月 16 日は、サンクトペテルブルク自体――ピョートルの生みの子である新帝都――に、ピョートル自身が礎石を自ら据えた日だ。

 ピョートルが亡くなったとき、その棺は、建設中だったペトロパヴロフスク大聖堂のなかの、臨時の木造礼拝堂に置かれた。1731年、即位したアンナ・ヨアーノヴナ(ピョートルの姪)はついに、ピョートルとエカチェリーナの亡骸を埋葬するよう命じた。二つの棺は南の身廊にある二重の地下室に安置された。

 興味深いのは、そこから棺を取り出すことはもはや不可能なように埋葬されたことだ。そのためには、大聖堂全体を解体しなければならないからだ。

 ピョートル大帝以前、ロシアの君主たちはさまざまな場所に埋葬されていた。大天使(天使首)大聖堂、昇天修道院、ボル(林)の救世主大聖堂(クレムリン内にあったが1933年に破壊)、ノヴォデヴィチ女子修道院などだ。しかし、サンクトペテルブルクに遷都されたことで、ペトロパヴロフスク大聖堂が皇帝の墓所となった。