若い頃、イワン4世(雷帝)は、宮廷に旅芸人の「スコモローフ」を招いて、いっしょに宴会し、踊ることがあった。
ヴォリンカ(バグパイプ)、葦笛、フルート、ドムラ(半球形の胴をもつ弦楽器)、ヴァイオリン、ハーディ・ガーディ(木製の回転板が弦を擦って音を出す弦楽器)、グースリ(弦楽器でツィターのスラヴ版といったところ)…。
これらはすべて、スコモローフなどの音楽師や芸人が演奏する楽器だ。そのパフォーマンスには、ロシアの異教時代に遡る伝統が多く含まれていた。
しかし、概してツァーリがこうした類の娯楽にふけることはなかった。ツァーリの宮廷での公式レセプションでは、ロシア正教会の厳粛な賛美歌だけが歌われた。そしてこれが、正教会によってツァーリに「許された」唯一の音楽だった。
ロシア正教会の聖職者やこれを信奉する著作家は、古い異教の伝統に反対し、スコモローフの歌を「邪悪」で「悪魔的」だと決めつけた。
そこで、イワン雷帝は、宗教的な聖歌を自ら書くことにした。彼は教会の勤行に参加し、聖歌隊で歌い、聖歌の歌詞と曲の両方を作ることができた。
ロマノフ朝の最初の三人のツァーリ――すなわち初代のミハイル・ロマノフからフョードル3世まで――も同じだった。聖歌を歌うだけではなく、楽器を演奏した最初のツァーリはピョートル大帝だ。
歌うだけでなく太鼓を叩いたピョートル大帝
ロシア帝国の初代皇帝となるピョートルは、子供の頃から、玩具の一つとして、軍楽隊の太鼓をもっていた。しかし彼は、教会の歌を教え込まれてもいた。後にピョートルは、多くの方法でロシア正教会の特権を抑制し、概して、古いロシアの習慣を軽蔑してはいたが、聖歌隊員として教会の勤行に加わるのを好んだ。このことは、さまざまな同時代人によって言及されている。
ピョートルは、バスの声部を歌うのが好きで、「強い声と優れた音感」をもっていた、とヘニング・フォン・バセヴィッツ伯爵は回想している。ピョートルはときには、合唱団を指揮することさえあった。
たとえば、1716年に姪のエカテリーナ・ヨアーノヴナがダンツィヒ(現グダニスク)で結婚式を挙げたときには、「ピョートルは…しばしばある場所から別の場所に移動して、詩篇のどの部分が歌われるべきか、歌手に指し示した」。これは、アイヒホルツ男爵の回想だ。彼は、エカテリーナ・ヨアーノヴナの夫君、カール・レオポルト(メクレンブルク公)の軍事顧問だった。
ピョートルは、楽譜を読んだり覚えたりできた。もちろん、それは、彼が幼い頃から太鼓を学ぶのに役立った。彼のいわゆる「遊戯連隊」において、ピョートルは、鼓手の筆頭に自らを登録した。これはある程度は、彼の軍の最下級の者でも尊敬されるようにするためだった。
また、ピョートルが軍隊の行進にともなう音響と一種の魅力を好んだことも、彼の太鼓愛好の一因だ。次第にピョートルは、太鼓に上達していった。彼は多くの祝賀会、友人の結婚式、そして軍事パレードで太鼓を叩いた。バグパイプやオーボエを演奏することもあった。だから、大帝はかなりのミュージシャンでもあったわけだ。
女帝エリザヴェータ・ペトローヴナは歌うのが好き
これはあまり知られていないが、ピョートル大帝の娘エリザヴェータは、父のこの方面の才能と歌への愛情を受け継いでいた。つい最近の2018年、サンクトペテルブルクのロシア美術館のユーリア・デミデンコ学芸員は、楽譜を見つけたが、それはこの女帝が歌うときに使った可能性が高いという。
これは、銀のバインダーで綴じられた手書き楽譜の14巻で、16声の合唱コンサートの14声が表記されている。アレクサンドル・ネフスキー大修道院合唱団を率いたゲラシム・ザヴァドフスキーが作曲したものだ。
そのうちの1巻には、ソプラノ・パートが含まれており、ロシアにおける女性による統治を象徴する透かしの「聖母マリアの結婚」で飾られている。この学芸員は、これはエリザヴェータ自身が歌ったパートだろうと推測している。彼女は、ある手紙の中で、自分は「第一ボーイソプラノ」だと言っている。
ピョートル3世はヴァイオリン
女帝エカチェリーナ2世の不運な夫、ピョートル3世は、わずか6か月間ロシアを治めただけで、ロシアの政治に大した足跡は残せなかった。しかし同時代の人々は、彼がいつでもヴァイオリンの稽古の練習時間は見つけていたことを記憶している。
音楽を好まなかったエカチェリーナは、夫のヴァイオリン好きに悩まされていた。「彼は、楽譜は読めなかったが、素晴らしい耳をもっていた。彼にとって、音楽の美しさは、力と情熱にあった」。彼女はこう書いている。ピョートル3世には、ヴァイオリンの名器のコレクションがあり、女性や政治に対するのとは違って、音楽は彼の数少ない真の情熱の一つだったようだ。
パーヴェル1世はチェンバロ
楽器が演奏できることは、貴族には必須であり、皇族にはなおさらだった――。ピョートル3世とエカチェリーナの息子パーヴェル1世は、すでにそんな時代に生まれた。
パーヴェルとその妻のマリア・フョードロヴナは、18世紀後半に最高の人気を誇ったオペラ作曲家、ジョヴァンニ・パイジエッロから音楽を教えられた。
彼のスタイルは、モーツァルトやロッシーニに影響を及ぼしている。パイジエッロは、1776年にエカチェリーナ2世からサンクトペテルブルクに招かれ、1784年まで宮廷作曲家を務めた。この間に彼は、パーヴェル大公夫妻を教えている。
パーヴェルは、チェンバロの演奏に優れており、妻はピアノが上手かった。夫妻は現代音楽も好きだった。二人は、1782年にウィーンで、神聖ローマ帝国皇帝のヨーゼフ2世に招かれて、モーツァルトと、当代最高の演奏家ムツィオ・クレメンティによる、チェンバロの見事な競演を目にしている。
アレクサンドル1世はヴァイオリン
19世紀初めには、ロシア皇室は全員、音楽が必修の教養となっていた。アレクサンドル1世は、クラリネットとヴァイオリンを教わった。彼の教師アントン・フェルディナンド・ティッツは、オペラ『オルフェオとエウリディーチェ』で有名な作曲家クリストフ・ヴィリバルト・グルックの弟子だ。
アレクサンドル1世は、親しい友人たちと協演したことが知られている。しかし、ピョートル大帝の時代とは異なり、19世紀初頭には、皇帝が公衆の面前で音楽を奏するのははしたないとされていた。そんなことをするには、皇帝の地位はあまりに重いと思われていたからだ。
ニコライ1世はトランペット
アレクサンドルはヴァイオリンを習ったが、その弟で次代の皇帝ニコライ1世は管楽器を教わった。ニコライは、長身で肺活量が大きかったので、フルート、フレンチホルン、コルネットは難なく演奏し、これらすべての楽器を「トランペット」と呼びならわした。
歴史家イーゴリ・ジミンによれば、1830年代には、皇帝の個人的支出を見ると、楽器のクリーニングと修理、およびヨーロッパでの新しい楽器の購入にかなりの額を費やしている。この皇帝は確かにしばしば演奏したが、晩年の1840年代~1850年代になると、コンサートの数は減った。
アレクサンドル3世もトランペット
ニコライ1世の息子であるアレクサンドル2世の音楽的な嗜好については、妻のマリア・アレクサンドロヴナともどもピアノを弾いたこと以外、あまり知られていない。
しかし、夫妻の息子、つまり将来のアレクサンドル3世は、幼い頃から音楽に興味を示していた。1847年、アレクサンドル大公は、わずか2歳のときに、家庭教師の一人に、トランペットをくださいと頼んだ!
家庭教師は、おもちゃのトランペットを2本手に入れた。1つはアレクサンドル用で、もう1つは弟のウラジーミル用だ。兄弟は、「朝から晩までトランペットを手や口から離さなかった」ので、家族全員が辟易したという。
アレクサンドルは大きくなっても、トランペットへの愛を失わなかった。彼は最初、ピアノを教えられたが、あまり練習せずに放り出してしまった。しかし、15歳のときにトランペットのレッスンを受け始めると、一度も休まず、しばしば一人でも練習した。ニコライ1世の孫であるアレクサンドルは、有名な祖父と同じようにトランペットを演奏したかったようだ。たぶん彼は、祖父がホームパーティーで演奏するのを見たことがあった。
アレクサンドル3世は、一見、粗野な大男だが、大変音楽好きで、自分でも演奏し、楽器を手元に置いていた。ガッチナの離宮では、書斎にフレンチホルンを、更衣室には2本のトランペットを置いていた。自分の楽しみで気楽に吹くのが好きだったようだ。
1872年にアレクサンドルは、「吹奏楽愛好家協会」を設立し、9年連続で(1881年に皇帝になる前に)、仲間のミュージシャンと定期的に練習した。レパートリーはアマチュアからはほど遠いもので、ベートーヴェン、シューマン、ワーグナーなどだった。
皇后アレクサンドラ・フョードロヴナはピアノ
ニコライ2世は、父とは異なり、それほど音楽の演奏に熱心でなかった。ピアノを教わったが、あまり弾かなかった。しかし、彼の妻、アレクサンドラ・フョードロヴナは、経験を積んだピアニストと言ってよかった。1905年以降、彼女はピアノと歌唱の練習のために教師を雇った。
ニコライは、妻の演奏や歌をあまり聞かなかったが、ときどきは彼女の部屋にやってきて、彼女とその女官アンナ・ヴィルボワがピョートル・チャイコフスキーの交響曲を演奏するのを聞いた。この作曲家は、皇室で非常に高く評価されていた。
皇后アレクサンドラは、出自はドイツ人だが、ロシアの伝統的な楽器、バラライカが大好きになった。とはいえ、その演奏を習うわけにはいかなかった――傍からは滑稽に見えただろうから。バラライカは「素朴な」楽器であり、皇室にはふさわしくないと考えられていた。そのため、バラライカを聞くためには、皇帝夫妻は、皇室のヨットに乗らなければならなかった。
ニコライ2世の息子、皇太子アレクセイはバラライカ
ニコライ2世の息子、皇太子アレクセイは、あらゆる楽器の中でバラライカを最も愛していた。彼は3歳のときに演奏を始め、12歳のときには、何人かのプロからレッスンを受けた。
彼はまた、幼なじみの友人である幼年学校生徒、アガエフとマカロフのために2つのバラライカを購入した。友人たちといっしょに演奏できるように、個人の経費として、楽器の代金を払った。
ロシア革命後に、皇帝の家族がトボリスクに流刑となったとき、アレクセイは、2つのバラライカをもっていった。生涯最後の数ヶ月間も、地位と称号を奪われ、過酷な生活条件を強いられつつも、彼は好きな楽器を演奏し続けた。