11月4日は何の祭日か:「民族統一の日」って何?

Vitaly Timkiv/Sputnik
 この祭日が制定されてから15年ちょっとにすぎないが、それが11月初めなのは偶然ではない。

 ロシア全国で公式に休日になるので、国民の祝日は誰もが好きだ。その主なもののなかにごく最近制定されたものがある。それは11月4日で、政府は、振替休日で連休にすることが多い。おかげで、11月のどんよりした寒天のさなか、ロシア人は一息ついたり、暖かい地域に旅行したり、あるいは家でただ毛布にくるまってゆっくりできたりする。これは何の祝日だろうか?

 それは「民族統一の日」で、2005年から正式に導入されている。残念ながら、いまだにすべてのロシア人が何を祝うのか理解しているわけではない。しかし、この日は、歴史に深い根をもっている。もっと具体的に言うと、ロシア国民が、外国による占領を脱するために団結した17世紀初めに遡る。順序立てて話していこう。

僭称者、偽ドミトリー

 1584年、イワン4世(雷帝)が亡くなり、病弱な息子、フョードル1世が後を継いだが、彼には実子はなかった。彼の死後、9世紀以来ロシアを支配してきたリューリク朝は断絶する。

 ロシアの大貴族たちは、新しいツァーリ、ボリス・ゴドゥノフを選出した。彼は、故フョードル1世の妻の兄で、義弟の治世にすでに大きな影響力をもっていた。だが、ボリスが即位して数年後、ある男がポーランド軍とともにロシアに攻めてきた。この男は、自分はイワン雷帝の真の後継者、ドミトリー皇子であると宣言する。確かに雷帝には、ドミトリーという末子がいたが、子供の時に不可解な状況で死亡していた。

ドミトリー皇子

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 ドミトリー皇子は、ボリス・ゴドゥノフの命令で殺されたという噂が民衆の間に広まっていた。ボリスは皇子を殺して全権を握ろうとした、というのだ。この風説を、僭称者が自分の目的のために利用する。

 ちなみに後年、この説は、芸術、文学にもとりいれられて流布した(そのなかには、大詩人アレクサンドル・プーシキンの悲劇『ボリス・ゴドゥノフ』、作曲家モデスト・ムソルグスキーによる同名の傑作オペラも含まれる)。

 偽ドミトリー(僭称者は、その名で歴史に残った)は、当時隆盛を誇っていたポーランド・リトアニア共和国で、ロシアの王位継承者として認められた。彼は同共和国と次の点で合意した。もし共和国が自分の王位継承を支持し、軍を派遣して自分とともにロシアに侵攻するならば、ロシア西部の一部を与える、と。

スムータ(大動乱)の時代

 17世紀初めは、スムータ(大動乱)として知られる、ロシア史上最悪の激動の時代の一つだった。ロシアでは、ボリス・ゴドゥノフの死後、大貴族たちはうまく権力を分かち合うことができず、内紛が続いていた。

 その結果、1605年に、偽ドミトリーとポーランド軍は、モスクワに入り、クレムリンを占領することができた。彼は、ポーランド貴族の女性、マリーナ・ムニシェクと豪華な結婚式を挙げ、彼女をロシアの皇后として戴冠させた。

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 しかし、しばらく後に大貴族は反旗を翻して、偽ドミトリーは惨殺される。ツァーリになったのは、ロシアの大貴族ワシリー・シュイスキーだ。

偽ドミトリーの殺害

 ところが間もなく、別の僭称者が現れた。人呼んで偽ドミトリー2世だ。彼はまたも、自分は奇跡的に助かっていた、と宣言した。マリーナ・ムニシェクさえ、彼を夫であると「認めた」。ポーランドも、新たな僭称者のために大軍を集め、次々とロシアの都市を占領し始める。

 1608年、偽ドミトリー2世は、モスクワ近郊のトゥーシノに居を構えた(そのため彼は、「トゥーシノの悪党」と呼ばれた)。彼はまだ首都モスクワを占領していなかったが、その支配下には既に広大なロシア領が入っていた。しかも、多数のロシア人が、彼を雷帝の息子と信じて、ドミトリー側に寝返ったことを指摘せねばならない。

 ツァーリのワシリー・シュイスキーは、スウェーデンから支援を仰ぐ条約を結んだ。これに不満をもったポーランド王ジグムント3世は、シュイスキーに対し宣戦布告する。

 一方、偽ドミトリー2世も、密かに動いていた。ジグムント3世に見限られた彼は、自分を支えてきたポーランド軍の主力が帰国してしまうと、タタールとトルコへの接近を図った。

  結局、1610年に、偽ドミトリー2世は殺害され、その間にポーランド軍はモスクワとクレムリンを占領。つまり、ポーランドがロシアの権力を握ったわけだ。

 シュイスキーは修道院に送られ、ロシアの統治は、形の上では、7人の貴族からなる「七人貴族政府」が担った。彼らはポーランドと条約を結び、ポーランド王ジグムント3世の息子ヴワディスワフをロシアのツァーリと認めた。

ロシアを解放した英雄、ミーニンとポジャルスキー

ニジニ・ノヴゴロドの市民を糾合するミーニン

 ロシアは、ポーランドの支配下に置かれて、あちこちで反乱、蜂起が起きては鎮圧される。そんななか、外国の侵略者から自国を解放するために、ロシア国民は初めて、義勇軍を組織した。義勇軍は、1611年にモスクワへの最初の遠征を行ったが失敗する。義勇軍は惨敗し、多数の死者を出した。

 二度目の遠征は1612年に行われ、ドミトリー・ポジャルスキー公と商人クジマー・ミーニンが主導した。二人の英雄の銅像が現在、モスクワの「赤の広場」にある。ニジニ・ノヴゴロドの有力者だったミーニンは、その権威をもって民衆を糾合し、ポジャルスキーが軍隊を率いた。こうして、ロシア史上初めて、民衆が貴族と一致団結して外敵に対して戦った。

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 ポーランド軍による数度の攻撃を撃退して、義勇軍はモスクワに達し、キタイゴロドとクレムリンを包囲した。長い包囲の間に、多くのポーランド人が餓死し、ついに残兵は降伏する。クレムリンを明け渡したポーランド兵のかなりの部分をロシア軍は赦免した。

新しい祝日が必要になったわけ

クレムリンからポーランド軍の退治

 1613年、大動乱がひとまず収束し、ロマノフ王朝が成立した。1649年、ロマノフ朝の第2代ツァーリ、アレクセイ・ミハイロヴィチは、1612年にモスクワとロシアがポーランドから解放されたことを記念して、10月22日をイコン「カザンの聖母」の祭日とすることを命じた。この日、イコンの庇護によりクレムリン開城が達成されたことを記念したのである。グレゴリオ暦では、これは11月4日に当たる。まさにこの日を「民族統一の日」と定めることが決められたわけだ。

 しかし、11月に「民族統一の日」を祝うもう一つの理由がある。ソ連時代に11月7日は、1918年から1991年まで、1917年の10月革命の記念日として祝われた(旧暦つまりユリウス暦では、革命は10月25日に起きた)。ロシア中の国民が11月の祝日(それは当然休日だ)に慣れている。

 そこでソ連崩壊後、この祝日を廃止する一方、新生国家のために、新しい、ロシア史にちなむ――しかしソ連時代と関係のない――祝日を考案したわけだ。

 「(新しい休日の)登場には、いくつかのもっともな理由がある。第一に、ロシアでは、160以上の言語が話され、何十もの民族が住み、しかも彼らは、あらゆる世界的な宗教を信仰している。こういう国では、統一の理念は、平和共存と国の発展に必要な唯一無二のものとなる」。ロシアの元文化大臣ミハイル・シュヴィドコイはこう書いている。

民族統一の日を祝う人々、2016年

 「第二に、もはやソビエトではない、新たなロシア国家の創設で、新しいシンボルが必要になった。そこで、革命記念日である11月7日の前後に、何か歴史的大事件を見つけねばならなくなった。ソ連の伝統に負けない祭日をつくるためだ」

 「ロシアには、革命前の出来事に関連する祝日は一つもなかった。この日は、本質的に、ロシアのナショナリズムの日となった」。この祝日の発案者の一人、ウラジスラフ・スルコフ元大統領補佐官は述べている

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