不死鳥のごとく、ロシアは何度も灰から蘇っている。だから、「ロシアは実際のところ何歳なの?」と尋ねられると、混乱する人が多い。この問いの鍵は、別の問いにある。すなわち、いったいどのロシアについて話しているのか?
赤の広場に集まったモスクワ市民、1991年
Yuri Abramochkin/Sputnik1980年代後半から1990年代初頭にかけて、モスクワで短期間、混沌たる政争が展開し、それは結局1991年に、法律を踏んで正式に連邦を解体するという形で、ソ連崩壊に至った。
「ロシアの日」という、毎年6月12日に祝われる祝日がある。1990年のこの日、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国人民代議員大会が、国家主権に関する宣言を採択しており、これを記念したものだ。
この「ロシアの日」が、現代の、つまりソ連崩壊後のロシア国家の誕生日と混同されることがよくある。しかし、1990年6月12日の主権宣言まで、現代ロシアの起源を遡るのはミスリードだ。
なるほど、この国家主権宣言は、ソ連崩壊への道を開いた――ソ連の法律よりもロシア連邦憲法と連邦法の優越をうたうことによって。
だが、現代のロシア国家が実際に誕生したのは、その1年後だ。このとき、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国の最高会議(国会)は、この国家の名称を「ロシア」または「ロシア連邦」と定め、ソ連は1991年12月25日に正式に解体された。
だから、現代のロシアは2024年に33歳になることになる。
十月革命55年周年を記念するパレード
Eduard Pesov/Sputnikこのように、比較的最近、「ライフクロック」がリセットされたけれども、ロシア国家は、実際には、はるかに「年上」だ。現代のロシアが独立国家として法的に出現する前は、69年間にわたり、この国は、別の名前「ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国」をもち、ソ連の一部だった(一部と言っても大半を占めていたが)。つまり、他の連邦構成共和国とともに、共産主義同盟の一員をなす形だったわけだ。
ソ連の一員という立場で、ロシアは、1922年12月30日から1991年の連邦解体まで存在した。ソビエト連邦が完全かつ公式に形成される前は、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国として単独で存在し、まだソ連の一部ではなかった。こうした単独の形は、1917年の十月革命以来だ。
ロシアがソ連建国の前と後に、ロシア・ソビエト連邦社会主義共和国として存在した年数に、現代の独立国家としてのロシアの「年齢」を加えると、2024年にロシアは107歳になる。
初めて「全ルーシの支配者」という称号を用いたイワン3世
Public domain帝政ロシアはしばしばロマンティックな色彩にいろどられ、1917年の二月革命で終わったが、かなり長期にわたり存続していた。周知の通り、ピョートル1世(大帝)が1721年に、この国をロシア帝国と、そして自らを皇帝と宣言している。
しかしそれ以前も、ロシア国家は別の形で、つまりロシア・ツァーリ国として存在していた。これは1547年に、イワン4世(雷帝)の下で生まれた。
さらに言えば、ロシア・ツァーリ国の直接の前身、モスクワ大公国は、1283年に形成されている。まさにこの国家において、雷帝の祖父、イワン3世(大帝)は、「全ルーシの支配者(ゴスダーリ)」の称号を用いた。
これを「方程式」に加えると、ロシアは2024年に741歳になったことになる。
『ゴストムイスルの孫たち、リューリク、シネウスとトルヴォル』、イリヤ・グラズノフ作
Igor Boiko/Sputnikしかし、公式には、ロシア国家の出現は9世紀まで遡れるという点で、概ね合意をみている。そのとき、『原初年代記』によれば、ヴァリャーグ(ヴァイキング)の公リューリクは、フィン人と東スラヴ人の住む北東の地から、「来りて我らを支配せよ」と求められた。これを受けて彼は、862年にノヴゴロドに居を定め、最初の公式のロシア国家の基を築いた。
とはいえ、当然ながら、リューリクが招聘されるためには、彼およびその取り巻きを招いた者、そしてその者を派遣した人々がいたはずだ。リューリク朝が誕生する以前から、彼らはこの地に住んでいたわけである。それでもロシア国家の誕生を862年とする説は広く受け入れられている。
だから、次に誰かがあなたに「ロシアは何歳?」と尋ねたとき、あなたは今や、2024年に1162歳になることを知っているわけだ…。そう言っていいのかな?
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